ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

4月の君は…

久しぶりにアニメの一気見というのを敢行して、『四月の君は嘘』というやつを見終わった。結構、内容のあるストーリーで考えさせられた。いいアニメだったと思う。あまりこの作品を悪く評価する人がいないし、むしろ世間的には大絶賛なのだが、それはあくまでストーリーが感動したとか、ラストの終わり方がよかったとか、泣けたとか涙腺崩壊とか、そういう文脈で語られている。
ぼくは実際、感動とか泣けたとか、そういう方向ではあまり関心しなかった。まったく、と言ってもいい。なぜなら、それはもう見事なまでの「死にオチ」だったからだ。それもダブルの死にオチ。
ここでぼくが「死にオチ」と呼んでいるのは、人が死ぬことによって物語が盛り上がるような仕掛けを意味する。別に富野由悠季アニメのように最終回に登場人物をサツガイするから「オチがつく」ということではなく、単純に人の死がストーリーの重要な起点になるような物語だ。
本作品は序盤から中盤において母の死を起点としてストーリーが進行しているし、最初からラストにかけて、盛大にカヲリが「死ぬ死ぬ死ぬ、あー死んだー」を導入している。メインの「死にオチキャラ」がカヲリ、サブの「死にオチ」が母、という二つの死を燃料、推進力に変え、ストーリーを最後まで持っていっている。
死にオチが哲学的に意味するものは大きい。なぜなら、大前提として、このストーリーは人が死ななかったらさほど盛り上がらなかっただろうし、原作者は人の死に頼らないと感動するシナリオを描くことができないということである。これは2010年以降アニメ界において急速に広がった「痛みの喪失」と大いに関係がある。が、それはいま重要でないというか、話がそれてしまうから、痛みの喪失については、機会があればまた書こうと思う。


ぼくが非常に感心したのは、この作品が、ロマン派から近代、そして現代にいたるまでの音楽家(ミュージシャン)の苦悩を描き出そうとしているからだ。
宮園かをりは、頻繁に公正に問いかける。「キミはどうしたい?」
つまり、曲を「どう弾きたい?」ということである。当たり前のように、それは「想いをこめて弾け」というメッセージだ。そして、作中では公正のライバルを含め、様々なプレーヤーたちがそれぞれの想いをこめて曲を演奏する。「響け!」とか、「キミのために!」とか、そういうセリフにそれは顕著に表れる。
しかし、彼らのアツい思い、情熱は、審査員や指導者など「大人」たちから、しばしば「コンクールは自分探しの場所じゃない」などと戒められている。序盤、公正は母の面影を通じて「譜面通りに弾くことが最も評価されることだ」と学ぶあたり象徴的である。
最終的には、公正がカヲリの死にオチを通じて、実に道徳的で優等生的である「最強の想い」をこめて演奏することで、作品は終わりを迎える。(ネタばれになるから敢えて書かないが、ともかくそういうことである)
一見すると、このような設定というのは、クラシックマンガ、アニメにはもはや「あるある」とも言えるほどありふれているのだが、ぼくにとってはこういう部分に切り込んでいけるということが良い、と非常に感心したわけである。

 

なぜか。じつは、もともと音楽の演奏において「表現すべき内面」などというものは存在しなかったからである。

 

ぼくらはすでに音楽を「あふれでる感情の表現」として、その想いをもって演奏に向かうことを自明のこととして考えている。だから審査員や指導者ではなく公正たち若手にこの上なく感情移入し、「なんだジジイ死ね」などと思うわけである。
ところが、楽器演奏はロマン派まで、「手順通り事を運ぶ作業」であって、感情の表現ではなかった。そこに自分の想いを乗せることは、ロマン派から近代にかけて見出された、新しい感性なのである。つまり、ぼくらが自明だと思っていたことというのは、過去にはまったく自明ではなかったことになる。むしろ「表現すべき内面」自体、歴史的には最近見出されたものなのである。

こういうことは歴史を詳細に検証してもよいが、しかしぼくらの少年時代の成長過程を振り返ったほうが早いので、それを書く。
ぼくらはテレビに出てくるようなバンドに憧れ、そのコピーバンドから音楽生活をスタートさせるのである。はじめは、例えばバンプオブチキンのコピーをやろう!ということにする。その時、ぼくらはバンドスコアや原曲の指示する通り、コピーすることこそが音楽なのであって、それが楽器演奏そのものだったのだ。
しかし例えば、バンプの曲も数曲やり慣れて、ライブにも出てまわりをよく見わたすと、他の人もみんなバンプのコピーをやっている。ぼくらは、みんながやっているバンプの曲を、同じように手順に沿って作業するだけでよいのだろうか?バンプの曲を通して、なんらかの自分たちのオリジナリティを探すべきではないのか。感情表現をすべきなのではないか?
こうして、曲に想いを乗せて演奏をするという行為が生まれる。想いを乗せるからには、その「想い」そのものが、想いを形作る源泉が、自分の中に存在しなくてはならない。こうして、「表現すべき内面」が自分の中に見出されるのである。
ここで注意しなくてはならないのが、そもそも「表現すべき内面」など初めからなかったということである。それはあくまでも、必要に迫られるかたちで見出されたにすぎない。だから、ぼくらは必死になってエピソードを探すわけである。自分の幼年期、少年期から、自分がつらかったことなどを引っ張り出し、あたかもそこに苦悩や葛藤に満ちた内面があるかのように振る舞うようになるのだ。有馬公正はそういう意味で特別である。なにしろ人が2人も死んでいるのだから、表現すべき内面がカンストしている状態とも言える。
余談だが、よくONE OK ROCK的なバンドがライブのMCで「おまえらの中にあるもの全部吐出しちまえよー!」など言うのをよく聞く。しかし、実は吐き出すべき中身というのは存在しない。それは事後的に見出されるのだから。

一度この内面が見出されると、それは大きな影響力をもって、ぼくらの意識を反転させてしまう。あたかも、人間が誰しも表現すべき内面を持った個体であるかのように錯覚されてしまうのだ。
ロマン派以降近代では、ピアニストはみな、「表現すべき内面」をもち、その「想い」を演奏会の場で曲に乗せることが自明だと思われている。それはしかしロマン派以前においてはまったく自明でなく、そうした守旧派(作品中では審査員のおじさんたち)からしばしば反感を買う―『四月の君は嘘』では、この葛藤が見事に表現されていたとぼくは思ったのであった。


ところで、バンプコピーバンドで自分の想いを表現するのには明らかに限界がある。当たり前だがバンプはまだ生きているし、コピーバンドは彼の想いの劣化コピーにしかならないからである。もしそこに、鬱わずらったオレのカッケー苦悩を乗せようものなら、ダサすぎて客席からペットボトルがブッ飛んできてしまうのではないか。
だから、ぼくらバンドマンはまだ「逃げ道」を隠し持っている。なぜなら、自分で歌詞を書いて自分で曲を作ってそれを演奏すれば、それがいかにかっこ悪くとも、確実にオリジナルな内面を表現できていることになるからだ。そう、つまりオリジナル曲とは、表現すべき想いとともに見出された「表現すべき内面」によって、いわば転倒したかたちで生まれたのである。
こうして考えると、クラシックの人たちは本当に大変だ。もともとは機械的に精密な指の動きをするだけで済んでいたものが、現代まで生き延び、延命されているがゆえに、「表現すべき内面」も付け加えて演奏せねばならなくなったからである。しかし事実、『四月の君は嘘』のなかで彼らがやっているのは、ショパンというまこと「赤の他人」の曲に、自分の個人的なジレンマとか少年期の話とかそういったものを無理やり乗せているわけである。これはバンプに例えるとペットボトル飛来ものの話になってしまうから、実際はイタタ…っていうことなのだよなあ…
そう思いながら、ぼくはこのアニメを見ていたのだった。

どうぶつの森ポケットキャンプ

どうぶつの森スマホアプリ、ポケットキャンプがリリースされ、話題を集めている。もともとDSなどのハードで出していたゲームであったが、ここへきてスマホゲームとして生まれ変わり、SNS要素なども加わってかなり人気になっているようだ。

 

ぼくはこのゲームを少し眺めて、面白いことを発見した。それは、「どうぶつ」と「フレンド (にんげん) 」との奇妙な違いである。

 

このゲームは基本的に、各地にいる住民「どうぶつ」たちの「おねがい」を聞き、そこで要求される収穫物やアイテムを相手に渡す。そうしたおねがいの成果物として得られる、お返しの品やお金、そしてなかよし度 (経験値) を獲得することが目的である。これを軸にして、どうぶつを自分のテリトリーであるキャンプに招待したり、改築し、とにかくゴージャスにしながらゲームを進めていく。


このシステムとは別に「バザー」という機能があって、現実世界に存在するにんげんがサイバースペース上で「フレンド」同士としてつながり、互いに収穫物を売買しあう。場合によってはレアなアイテムなどをお金を使って交換しながら、効率よくゲームを進められる、SNS的要素を含んだシステムだ。


ぼくはこの、「どうぶつ」と「にんげん」のあいだの、取引の非対称性にすごく興味を持ったわけだ。


古来、アフリカに登場したホモサピエンスは、お互いに食物同士を交換しあっていた。まず相手に与え、そしてお返しをもらう、互恵的な関係を築くことによって小さな集団社会を形成し、互いの争いを避けてきた。


しかし、そこから人間は貨幣というものを発明した。貨幣とは、すべてのモノと交換できる価値をもった交換媒体のことである。貨幣によって、人間はより大きな範囲の、あったこともない人たちと出会い、取引し、それをきっかけにして連帯し、国家レベルの集団になることが可能となった。人間はある段階から、個々の具体的なモノを欲しがるよりは、むしろこの貨幣そのものを欲望するようになり、その無限の欲望を原動力にすることによって、おおきな社会を形成するに至ったのだ。
これこそ、人間が人間であるゆえに、人間のみが作り出した発明品である。あらゆる動物の中で人間こそが、貨幣を媒介にして物を交換し、他者と連帯する生き物なのである。

 

どうぶつの森の世界では、「フレンド」たちが、たがいに貨幣を媒介にして素材を交換しあう。それは、「フレンド」がにんげんであることの、もっとも確かなあかしである。一方、住民である「どうぶつ」たちは、貨幣を媒介にして商取引をすることができない。「おねがい」によってほしいものを主張し、相手に与えてもらい、お返しをする。狭い共同体の内部において相互に物々交換をする、互恵的な関係である。
ゆえに、どうぶつの森の「どうぶつ」たちは、人間とおなじ言語でコミュニケーションし、二足歩行をしたとしても、どこまでいっても「どうぶつ」なのである。貨幣を媒介にしない限り、「どうぶつ」の域をこえることができない。

 

それが、どうぶつの森、ポケットキャンプが伝えてくれた真実のメッセージであったのだ。

結局のところ使っているシンセの話

ぼくはもともと、エレキギターがいるバンドでキーボード/ピアニストとしてやるつもりだった。だからシンセも音のヌケ、音の密度というところにこだわり、clavia社のNord Electroを購入したのだった。


Nordはかなり完成度の高いシンセである。軽量化と直感的に使用できるアナログつまみ、強烈に抜ける力強い音色たち、そして赤のカッコイイびじゅある。どこをとっても非の打ちどころがない。最近までずっと、国内シンセメーカーをさしおいてNord一強時代が続いていたのは確かだ。ところでこの頃KORG社より発売になったVox continentalはかなりNordを意識した後発品で、軽量&カコイイ見た目はNordを超えている気がする。こいつはいよいよNordの天下が幕を下ろすかもしれないというアツい展開で実に目が離せないが、しかしそれはようやく競合するような商品が生まれたということであって、Nordは素晴らしい最強シンセだという事実にかわりはない。


にもかかわらず、ぼくは結局のところ、NordではなくRolandの製品に落ち着いてしまいそうだ。


ぼくが持っているのはRoland RD-64というやつ。64鍵しかなく、音色もピアノ、エレピ、オルガン、クラビの4種類しかない。クラビは使い道がわからないので実質3種といっていいだろう。そしてピアノ音色はそこそこショボい。上位のRDシリーズに比べるとあきらかに目劣りするし、Nordとの差も歴然だ。Roland特有の「オルガンだけプリセットボリュームが破壊的にでかい」キ〇ガイ仕様もあいまって、特に使いやすいシロモノではないのだが、これがいま一番しっくりきている。その秘訣は「プレイアビリティ」にある。
プレイアビリティとは、つまり鍵盤そのものの性能のこと。各社はいかにピアノに近い弾き心地の鍵盤を作るかで必死に格闘しているようだが、ここに総重量という悪魔の制限が加わる。鍵盤のタッチをピアノ本来の鍵盤に近づけようとすればするほど、どうしても鍵盤自体が重くならざるをえない。鍵盤数は約70個くらいであるから、鍵盤の質にこだわればこだわるほど、総重量は加速度的に増加してしまう。つまりスタジオやライブハウスに持ち込むことが不可能な製品になってしまうのだ。その総重量とのバランスを見事に制したのがRoland RD-64だった、とぼくは思ったわけだ。


ぼくが持っていたNordのハード鍵盤も悪くなかったのだが、やはりRolandのピアノタッチ鍵盤が一番しっくりきた。しかも、総重量が10kgそこそこで、このタッチの鍵盤というのは驚異的なスペックだ。他社製の本格的なピアノタッチ鍵盤シンセは、どう考えても20kgは超えてしまう。
結局のところ、とぼくが言ったのは、ライブやスタジオでのパフォーマンスを左右するのは音色の良さだけではないということ。むしろ鍵盤自体の弾きやすさこそが、ぼくの場合パフォーマンスに大きく影響してしまうことがわかったのだ。

 

蛇足になるが、シノバンをやるにあたって、予算6万くらいのKORG社のKROSSの安いやつや、YAMAHA社のMX61を買おうと思っていた。チープでありながら多様な音の出るコスパ型万能シンセが欲しかったのだ。特に、MX61は本当にいいなと思ったので、こいつを買うつもりで楽器屋のシンセコーナーにいった。
しかし、実際に購入したのはまたもやRoland社の、GO KEYSという製品である。理由はよくわからないが、とにかく一番しっくりきた。

結局のところ、ぼくはRoland社の製品に行きついてしまうのだろうか―そう思ってしまう出来事だった。

新しい連帯の形

ありがたいことに、いまバンドのピアニストというポジションをやらせてもらっているのだが、実はぼくはピアノ用の譜面、いわゆる五線譜がほとんど読めない。しかもロジカルオシレーターにはギタリストがいないので、ピアノが唯一のコード楽器であり伴奏楽器であり、場合によってはアドリブでソロも取る。


にもかかわらず、こんな体たらくのぼくにピアノを任せているのだからうちのバンドのメンバーは本当にすごいとしか言いようがない。これこそ信頼関係を端的にあらわしている気がする。

 

ところで、幼少期にピアノを習ったりすると、それは間違いなくクラシックピアノになる。バイエル的なものから始まり、ツェルニーソナチネソナタを超えてショパンに続く長い道だ。このピアノ能力において最も評価されるのが、譜面に忠実に弾くことである。

それは間違えない、ミスタッチをしない、譜面に書いてない余計なニュアンスを入れないとかいうこともあるが、そもそも初めて与えられた五線譜の読譜をかなりのスピードでこなす技術が要求される。

 

このようなことを要領よくこなすことができた子が、「ピアノの才能がある」子になる。逆に五線譜が読めない子は「才能のない、努力のしない」子として見捨てられ、スタートラインに立つことすら許されないのだ。

ぼくは五線譜が読めないから、一度は見捨てられた。それでもピアノに向かって日々努力をして、バンド活動をして仲間を作る中で、気づいたことがある。

 

それは、意外と五線譜が読めないピアニストがまわりに結構いること。

 

つまり、ロックやポップスの世界は、幼少期に五線譜が読めなくて見捨てられ、才能ない子の烙印を押されたにもかかわらず、ピアノへの情熱が捨てきれなかったプレイヤーたちの受け皿として機能できているのだ。これは考えてみるとすごいことで、ジャンルがもつ自由な風土が、文化が、われわれのようなはぐれ者を許容し受け入れることができているのだろう。


逆にこう言うこともできる。クラシックピアノはおそろしく排他的なのだ。規律訓練型の練習を強い、それに追従できなかったものを排除する。一度排除されたものは、その後永遠に排除され続ける。それほどまでに、許容度の低い文化なのだ。
クラシックは気高く華麗であり、人類が長い歴史と鍛錬を経てたどり着いた、最高の芸術である。それは認める。だけれども、そこには自分たちの友とそうでないものの間の区分を明確にひき、友と認めなかったものを排除する「友敵思想」が含まれている。クラシックは最高の芸術であり続けるため、ともに頂点を目指す最高の友、仲間以外のものを排除し続けなければならない。


一方、排除されたぼくらはどうか。ロックやポップスなどの周辺世界で、浮遊する幽霊のように点在し続けるほかない。しかし最近思うのは、こうやって排除されたぼくらが点在するだけでなく、事後的に連帯することで、クラシックピアノ界よりはるかに大きな可能性を見出すことはできないだろうかと本気で考え始めている。残念ながら、自分にはコミュニケーション能力が足りないので一切そんなことはできていないが…

参照項の不在

アメリカンミュージックアワードという番組を見たことがあるだろうか?年に一度、アメリカでもっとも活躍したミュージシャンたちが一堂に会し、パフォーマンスをしながら表彰を受け取るイベントである。これはNHKが字幕をつけて邦訳しているし、その気になればアーカイブでも見られると思う。

 

その番組の昨年度のものを見たときに感じたのだが、アメリカは現在、ほぼすべてがラップ音楽か、単純なコードを繰り返すループ音楽の二択である。そこにバンドはほとんど存在しないし、およそあのジャズを生んだ国とは思えないラインナップである。


日本よりもはるかに過激な形で資本主義=音楽の形式を推し進めたアメリカ。それは具体的には、売れれば正義、集客できれば正義ということ。お金を生む音楽こそが芸術的価値を持ち、つまり芸術的価値が人々をひきつけ、お金を生む。証明終わり。はい論破。みたいなことをここ20年くらいやってきたアメリカ。そんなアメリカの音楽は、顕著な伸び悩みを見せている。
誤解のないように付け加えておくが、ぼくはラップやループ音楽が低俗であると言っているわけではない。それしか選択肢がない、というのが問題なのだ。

 

日本のミュージックシーンはつねに、困ったときにはアメリカを参照してきた。


歌謡フォークが伸び悩んだ際にはマイケルジャクソンやプリンス、マドンナを輸入し、バブル期の大衆音楽を牽引した。ボウイが解散し、バンドブームが終わろうとすると、メタリカなどのヘヴィメタルを取り入れ、延命し、のちのヴィジュアル系の起源エックスとなる。
上述のバブル期ポップスに可能性がないとわかるや否や、ポップミュージックをシンプルに捉えなおした小室哲哉が、クラブミュージックやトランスをJポップに発展させた。
TKのアイデアの枯渇や、ヴィジュアル系が偽物たちの世界観に駆逐されてしまうと、そのタイミングでR&B、ディーバと呼ばれる文化をいちはやく取り入れる。マライヤキャリービヨンセにはじまるあのR&Bシンガーの世界観を、宇多田ヒカルを頂点とした歌姫カルチャーで再現したのだ。
歌姫の次は男の出番、つまりそれはラップだ!と言わんばかりに、嵐が櫻井くんをラッパーに据えた。そして数限りないアーティストがうざい恋愛ラップでしつこいくらいにリスペクトし続けた。Aメロはラップ→サビはせつないメロを合唱、の流れがこのとき完全に出来上がる。

 

しかし、である。明らかに日本の音楽が低迷している中で、日本の音楽業界人は次なる参照項を見失ってしまっている。それは、アメリカでヒットする音楽に、日本が参考とすべき金の井戸が枯渇してしまったというべきだろう。アメリカ音楽こそ、まさに低迷し、急速にその影響力を低下させているからだ。
(一部では、その突き詰められたラップにこそ輸入価値があるということで、今の若者たちはラップでシーンを作ろうとしている。しかし、残念ながらこの種のものは直輸入してもダメなのだ。日本風に独自の取り入れと変容を遂げねばならないのだが、それが難しいらしく、いまのところは未変化体にとどまっているように見える。)


アメリカスタイルはここ数年、つねに売れること稼げることこそが目的であり、昔は順調であったから、日本の音楽スタイルも完全にそれを追随してきた。しかしながら、その資本主義=音楽に限界が見られたとき、いま日本はどうすべきなのか。このまま共に沈んでいくのか。


ここに問われているのは従来型の「資本主義=音楽」ビジネスとしての成功モデルを考えることではない。芸術のスタイルが次のフェイズに移行するモデルを構想すること。つまり思想―おおげさに言えば哲学が問われていると言っても過言ではないと思う。

売れているバンドはなぜ売れているのか

ゲスの極み乙女の川谷くんが文春されたときに、非常にたくさんの人から不倫についてバッシングを受けていた。だが、実は彼らの音楽性については意外にも、肯定する意見が多かったのは気になっていた。特に、テレビのワイドショーでコメントをするだけの有名人たち (坂〇忍氏やヒ〇ミ氏) は、「彼の音楽は俺好きだっただけに残念だ」との印象的な言葉を残している。


しかし、ゲス川谷くんにどうしてそこまで人気があったのか、というと、これに答えるのは簡単ではない。正解は「人気があるバンドだから人気があった」という極めて自己言及的な、トートロジーでしか言いようがないのだ。


例えば、あなたが高校生だとして、同じクラスのおしゃれな男子シメジ君がゲスを聴いているらしい。そしてモテているらしい。一方、隣のクラスの、普段物静かだけど美人でおしゃれな女子エノキちゃんもゲスを聴いている。そういうことなら、あなたもゲスを積極的に聴く、あるいは聴いていることにするのではないだろうか。


「誰かが買うからぼくも買う」-このトートロジーは、じつは経済学の中では「ケインズの美人選挙」と呼ばれている。本当に、素質として1000人に1人くらいの希少性をもつ美人が美人投票で優勝するのではない。たとえ平凡な見た目でも、みんなが、あるいは他の誰かが、この娘が美人だと思い投票するだろうから、きっと票が集中しそうな気がするので、ぼくも投票しよう…この結果、美人投票では1000人に1人の娘をさしおいて、平凡な娘が優勝してしまうのだ。


この行動原則、一般的には「投機」と呼ばれている。

投機と言われると、ふつうは株式投資やFX、デリバティブのように、投資によってギャンブル的にお金を稼ぐことを指すので、そういうのは特殊なことだし、なんとなく音楽の趣向などとは無関係なように感じる。でもそうではないのだ。投機こそ、人間の中に本来備わっている、普遍的な活動そのものなのだ。


それはお金を使うタイミング―つまり貯金と消費について考えるとたやすく理解できるだろう。人は入ってきたお金をいきなり使い切ることをしない。将来のリスクを考え、貯蓄の形で一時的に蓄えておく。しかし、大きな買い物をするとき、人が決断するきっかけを与えてくれるのは、実はまわりを見渡して、他の一般的な人だったらこうするんじゃないかな?、というタイミングで決めているのではないか?
「嫁も子供もできて、やっぱり今がローンを組んで家を買う時期かな」
「車検のこととか考えると、いま車を下取りに出して新車を買うタイミングだな」
上の例はどちらも、原資をたくわえ、頃合いを見計らって投資をする。この行動パターンがいったい投機でなくて何というのだろう。つまり、人間はあらゆる行動について、投機的な判断で行動しているといっても過言ではないのだ。


最初の例に戻ろう。時として、音楽の趣味―とくにポップスなどの流行歌においては、このような投機的判断が紛れ込むことがある。それは、まさに坂〇忍氏やヒ〇ミ氏が「ゲスの音楽評価してわかってる感出てる俺オシャレでカッケー的なことになりたい」と欲望するがゆえである。彼らはもちろん、本当に音楽性を理解して評価を与えているのではない。「ほかに評価を与えているおしゃれな若者」がいるから、追随して評価しているのである。


これは特殊な一例ではなく、どうも一般化できそうだ。そう、売れているバンドはなぜ売れているのか。それは、売れているから売れているのである。言い方を変えれば、投機的な投資対象になることができたから、である。ただそれだけである。そこに、高尚かつ深淵な音楽性や芸術性を見ようとするから、人は判断を誤りつづけるのだ。

引っ越し

どういうわけか心機一転したくなり、ブログを新しくはじめることにしました。


最近のSNSブームにおいては一貫して、アドホックにメッセージの要点だけを伝達するツール (ツイッターfacebook、インスタグラムなど) がとても強い力を持っていますが、ぼくは結構このブログという従来型の、文章を書くスタイルに期待をしています。


そもそも、ぼくは一言コメントやインパクトのある写真で自分の想いを表現できるほど器用な人間ではないのです。ブログは、そういったスピード感には欠けるけど内容をもったコンテンツだし、時流に流されずアイデアを書き残したい人にとても向いていると思うんです。


いまは上に書いたどのツールを使ってもいいよ、あなたの自由だよ、と表面上は言われている気がするんだが、実は選択権がほとんどなく、友達のしがらみからほぼ自動的にインスタやツイッターに組み込まれてしまっている。自由を求めて旅に出たのに、気づけばいつのまにか縛られている。そんな不自由な環境から少し抜け出して、文章を書いてみたいと思っています。