ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

ラブひなた荘

ラブひな』というマガジンに連載していた漫画のタイトルを聞いて、嫌な顔をする人は多いだろう。それもそのはずで、この漫画は一話につき女の子のパンツや裸やその類が必ず複数個挿入されている、れっきとした「パンチラマンガ」であるからだ。しかしながら、残念なことにぼくはこの週末を利用して『ラブひな』全14巻を読破してしまった。そして意外にも面白い気づきがあったので、少し紹介しようと思う。


ラブひな』は主人公である浦島景太郎が、幼い頃に「約束の女の子」と「一緒に東大行こう!」と約束したことから始まる。彼はその思い出を守るため東京大学を受験しようと試みるが、ことごとく失敗している。2浪ののち家を追い出された景太郎は、祖母が経営するはずの温泉旅館を頼るのだが、そこは女子寮「ひなた荘」であった。この物語は、浦島景太郎が唐突に「ひなた荘」の管理人となり、東大を目指して勉強することを口実に、住人の女の子たちと「ラッキー・スケベ(ラキスケというらしい)」に満ちた酒池肉林の日々を過ごすストーリーなのである。


ラブひな』は女の子がきわめてたくさん登場するというギャルゲー要素が強いため、メインヒロインを特定しづらいのだが、ヒロインは明確に二人存在する。「成瀬川なる」と「乙姫むつみ」である。
成瀬川なるは景太郎と同じく東大を目指しており、全国模試でもトップクラスの成績だったが受験に落ちてしまう。高校時代の家庭教師、瀬田に恋をしており、それが東大を目指すきっかけであった。また、幼いころは病弱でもあって、記憶をほとんどなくしている。
一方の乙姫むつみは超天然のマイペース野郎で、なると同じくほとんどの記憶を失っていたが、抜け目なく景太郎が初恋の相手であったことを思い出しており、「約束の女の子」のことを唯一記憶する存在となっている。彼女もまた、二人と同じく東大を目指している。


この「浦島太郎」「乙姫」というネーミングからもわかる通り、明らかに「ひなた荘」とは景太郎にとって現実から隔離された「竜宮城」である。ゆえに、ここには一種の倒錯がある。一般人にとってまさに「夢のような話」である東大合格も、景太郎にとってのは夢のようでいて、実は全くそうではない。読者は竜宮城「ひなた荘」でくりかえし「ラキスケ」な遊戯に耽っている、その景太郎の生活こそが「いつまでもこんなふうにドタバタしていたい夢」に感じるのだし、東大こそがまさに「いずれ訪れる、向き合いたくない現実」だと感じるのだ。
ラブひな』の世界に外部は存在しない。たまに予備校や東大が描かれるが、特に東大はまるで仏像のようにその姿を現すだけで、実際にそこを舞台に物語は展開しない。予備校の同級生も二人ほどいるが、影は薄く基本的には非モテモブの域を出ない。だからこの作品は、外部のない「ひなた荘」の中でひたすら女の子たちと永遠に戯れるお話である。この構図はまさしく、「友引町」という街の中のみでドタバタし続ける『うる星やつら』を考えてもらうと分かりやすい。『うる星やつら』には決して外部は存在せず、いつまでも続く珍道中を、学校を中心とした狭い登場人物たちの中だけで繰り広げていた。『ラブひな』はそうした「外部を必要としない島宇宙ユートピア」の、男目線ハーレム版と解釈できるだろう。


と、ここまではwikipediaで『ラブひな』と検索すれば誰でもアクセスできそうなことばかり書いてきた。だから、誰にでも思いつきそうなことしか言っていないはずである。しかし、ぼくが考えるに、この作品が真に面白い展開を見せるのは8巻以降と言える。実はこれまで説明してきたことは『ラブひな』の単行本7巻までの設定なのであり、そこまではありきたりでたいして面白くないのだが、8巻以降にこの作品のオリジナリティが発揮されているのだ。どういうことか。実は8巻以降、景太郎は成瀬川なるや乙姫むつみとともに、東大に合格してしまうのである。


先ほどぼくは、景太郎にとって東大こそが夢ではなく、むしろ戻りたくない現実であると述べた。これは隠喩として言ったのではなく、ほとんど文字通り、東大合格をきっかけにして景太郎が現実世界(ひなた荘の外部)へと引き戻されてしまったことを意味する。事実、景太郎は一度も大学に通うことが描写されないし、そして瀬田さんの手伝いをするためアメリカ留学をするので、ほんとうに作品から消え失せてしまう。つまり、8巻以降の『ラブひな』は、浦島太郎を失った竜宮城の住人たちが、もう一度浦島太郎を取り戻す作品に変貌するのである。


8巻以降の主人公は、誰が見ても明らかなとおり、成瀬川なるである。ゆえに物語は、景太郎という「ラキスケを目撃する第三者の眼」の不在のまま、成瀬川なるを中心とした女の子たちのエロいシーンが立て続けに起こるきわめて珍しい事態へと突入していく。


さて、ここで重要な問いを立ててみよう。浦島景太郎が浦島太郎だとしたら、そして、乙姫むつみが乙姫なのだとしたら、いったい成瀬川なるとは何者なのか?
実は、何者でもない。それは先ほども例に挙げたwikipediaで「成瀬川なる」と検索すれば、設定が非常に薄いことがわかるだろう。成瀬川なるは単にそこにいた、竜宮城のひとりの住人に過ぎなかったのだ。

7巻には印象的なシーンがある。景太郎は左手にむつみの手、右手になるの手を握り、階段を上る。登り切ったところで、「どちらかひとり、好きな娘を選んで。選んだ娘の手は握ったままで、選ばなかったほうの娘の手を放して」と要求される。しかし、景太郎はどちらの手も放すことができなかったのだ。景太郎は一人の女の子としてなるのことが好きだから、手を離すことができない。しかし一方、なるは何者でもないゆえに、「約束の女の子」である乙姫の手も離すことができない。このシーンは、景太郎の優柔不断性を強く表しつつも、実はヒロイン成瀬川なるの設定―好きな男の子に選んでもらうための根拠の不在を鋭く突いているシーンでもあったのだ。


8巻以降の主人公となった成瀬川なるは、人が変わったように強くなる。東大に落ちたと勘違いして家出してしまった景太郎にカツを入れにいくし、景太郎の妹とも互角に渡り合う。最終的には景太郎の容姿や言動が、昔のあこがれの人だった「瀬田化」するというオイシイ展開にも恵まれる。成瀬川なるは、それゆえカッコよくなったかつての主人公と結ばれ、幸せをつかみ取る。そうして『ラブひな』全14巻は完結するのだった。
そう、8巻以降の『ラブひな』は、決して何者でもなく、何者にもなれなかった成瀬川なるが、何者かに「成る」ストーリーだったのだと言える。成瀬川なるは浦島景太郎を取り戻そうと必死でもがいた。それは好きな人を取り戻すための旅のようでいて、設定の薄かった自分自身をもう一度取り戻す旅に他ならなかったのだ。


そういう点で、『ラブひな』は非常に面白い作品だった。実は他にも「浦島景太郎の去勢」というテーマについて語りたかったが、それは紙面の関係上また今度どこかで書くとしよう。

エンジェルズ・クライ

ANGRAの元ボーカル、アンドレ・マトスの訃報を聞いた。まだ若かったと思うので相当驚いている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000088-bark-musi


ANGRAはブラジルのメタルバンドで、1994年にデビューしている。当時、日本のヘヴィメタルはかなり元気がなくなっていた頃だったが、それはチェーンとかよくわからない金属をジャラジャラつけて徘徊する「ファッションメタル」が衰退したという話である。そのような頭の悪い連中が去った頃の90年代、意外にもヘヴィメタルは高学歴層や都会の若者など、インテリ層を中心にウケていた。彼らはメタルをより音楽的に解釈しており、メタルが秘める音楽としての可能性を素朴に信じていた。むろん、今よりは遥かに熱心なファンが多かった時代である。
日本ではエックスジャパンが大成功したこともあり、彼らの哀愁のある(そして速い)メタルサウンドは両手を挙げて歓迎された。エックスとはだいぶサウンドの感触が違うものの、目指している方向はそれなりに似ていた。速い、激しい、そして哀愁、の3拍子揃ったメタルを業界では「メロスピ(メロディック・スピードメタル)」というらしいが、とにかく、エックスもANGRAもその「メロスピ」だった。だから日本では受容された。
ANGRAはエックスに比べると圧倒的にテクニカルであった。例えばエックスのhideのギターソロは、実はギターはじめて1年くらいの若造でもコピーしようと思えばできるが、ANGRAキコ・ルーレイロのギターソロはその程度の練習量では絶対に弾けない。大人になっても弾けない人がほとんど、というくらい難しかった。そして、何よりボーカルである。エックスのトシは声が細く、初期はダミ声で汚い。後期も声が出なくなったりして心配になる有様だった。それに比べると、ANGRAアンドレ・マトスの歌はトシが歌っている音域よりもはるかに高いうえ、非常に安定していた。だから、ANGRAはエックスよりもディープでありつつ、テクニック的にはエックスをはるかに凌駕するマニア受けバンド、という位置づけだったのだ。
当時高校生だったぼくも、エックスジャパンに感染したあと、例にもれずANGRAにハマった。三作目『Fireworks』のリリース時に日本ツアーが組まれ、名古屋のライブハウスに見に行ったこともある。しかし、アンドレ・マトスはこのアルバムをきっかけにANGRAを脱退してしまった。理由はよくわからなかったが、「自分のほんとうにやりたいバンドがしたい」みたいなことだったと記憶している。その後、アンドレ・マトスはシャーマンというバンドを結成した。他方、ANGRAにはエドゥ・ファラスキという、アンドレ・マトスよりも超人的なS級妖怪ボーカルが入り、バンドとしての絶頂期を迎えた。
ANGRAが絶頂期を迎えた頃、ぼくは大学生だったが、『Rebirth』『Temple of Shadows』も聴いた。それらはたしかに素晴らしいアルバムだったが、何かが決定的に違っていた。その違和感とともに、ぼくはその成功を一歩引いた場所から、複雑な心境で眺めていた。絶頂期には初期ANGRAを上回るパワーとテクニックが詰まっているものの、しかしアンドレ・マトスが与えていた「哀愁」が欠落していたのだ。気づけばいつしか、「速い、激しい、哀愁」が「テクい、速い、激しい」の3拍子にすり替わっていたのだった。


アンドレ・マトスの新しいバンド「シャーマン」は全然聞いていなかったが、ANGRAもその後は下降線をたどり、結局どちらもあまり聴かなくなってしまった。この傾向はぼくだけでなく、実際、時代の流れと共鳴していた。2000年代中盤だったが、日本のバンドマンはこの頃から急激に、驚くくらい「テクいこと」をしなくなったし、「哀愁」も嘲笑するようになった。時代の空気が、そうした音楽を「ダサい」とあざ笑うようになったのだ。
それから10年ほど経つが、ぼくはやはり日本の音楽が選んだ道は良くなかったと切に感じている。自分の技術のなさや作曲能力のなさを、「それって音楽に必要?ダサいしいらなくね?」と言って誤魔化し、それよりも簡単にできることばかりやって浮かれてただけなんだと思う。ぼくは今、日本の音楽が苦境に陥っているさまを見て、アンドレ・マトスのやりたかったことも、キコ・ルーレイロのやろうとしていることも、それなりに理解できるようになった。つまり、音楽にとって「テク」と「哀愁」は絶対に切り捨ててはいけないものだったし、そのふたつからダサいを言い訳にして逃げてはいけなかったのだ。少なくとも彼らは、そのことに真剣に向き合っていた。


ぼくは高校生の頃、ANGRAのデビューシングル『Angel's Cry』の名前を借りて、エンジェルズクライというオリジナルのヘヴィメタルバンドを組んでいたことがある。それくらい愛していたバンドだった。アンドレ・マトスの訃報を聞くのはとても辛いことだが、まだ彼のスピリットは自分の中に生きているし、大切にしていかなければならないと感じている。あらためて、ご冥福をお祈りする。

Rolling Stone誌で思ったことの続き

前回、ぼくはローリングストーン誌の記事に絡めてエレキギター存続の危機について語ってきた。80年代から今に至るまでずっとサウンドの中核に位置してきたエレキギターが、アメリカではついにその役割を終えているのではないかという歴史的局面に相対しており、それは我が国のポップスの文脈からみても大変に興味深い事例であることを示してきた。


繰り返しになるかもしれないが、ぼくはこの「エレキギター絶滅危惧種」現象をギターだけの問題でとらえるのには反対だった。なぜなら、その奥には「既に絶滅してしまった」たくさんの楽器たちの屍があるからである。最初にリズムマシンによってドラムは置き換わり、シンセベースという形でベースも消えた。ピアノ、キーボードは複数の音と音色を同時に鳴らすMIDIのシステムの発展によってその地位を奪われたし、しかも現在はシーケンサーソフトの登場によって、音色を格納する音源やシンセサイザー本体の存在すら必要なくなっている。


このような状況の中、エレキギターすらも容易に電子音に取って代わられるのではないかと思われたが、実際にはむしろ逆にはたらき、日本では20年ほど、主役の座に居座り続けることができた。注目すべきは、エレキギターがその地位を受け渡すよりも先に、興味深いことに「ボーカル」が不必要とされるようなテクノロジーの発展があったことだ。『初音ミク』、ボーカロイドの登場である。

「ボーカル」の不必要化は主にニコニコ動画などの動画配信プラットフォームなどにおいて、「P」と呼ばれるような特殊な文化を生み出す。「P」とはもともとプロデューサーの意味で、ボーカロイドたる初音ミクをプロデュースして歌わせる人「ボカロP」というところから来ている。これは結局のところ、「たったひとりで孤独に作曲をした曲を、不特定多数の人たちの中で共有しあう文化」である。その後、現在進行形の日本で起こっていることは、そのような「孤独に曲を作ってきた人たち」がシンガーソングライターとして日本の音楽市場を席捲しているという事態である。


本当に周知の事実だと思うのでこれ以上の説明は加えないが、いま日本で最も売れているアーティストは「米津玄師」である。彼はソロアーティストだが従来型のシンガーソングライターではない。主にニコニコ動画などの動画配信プラットフォームなどにおいて曲をアップし続けてきた、元「P」だ。そのような活動をしているアーティストは、他にも「イヴ」などがいる。とにかく2019年現在、いまこの日本は「優秀な"個"が孤独に楽曲を作り、そのクオリティの高さを不特定多数が称賛する」という世界になりつつあることを念頭に置いていてほしい。


ぼくの考えでは、このような世界の在り方と「エレキギター絶滅危惧種」現象は偶然に重なったことではなく、同じことを背景にして起きている。つまり、エレキギターが楽曲から消え去ろうとしていることは、単にひとつの楽器の登場頻度が減ったというシンプルな問題ではない。むしろこれは、人間が「集団で音楽を創造することをやめたこと」を意味し、ぼくの問題意識に引き付けて言えば、「バンドという形態」に対する存続危機の問題なのだ。


いや、ちょっとまてそれはおかしい、「米津玄師」も「イヴ」もめちゃくちゃギター使ってるじゃないか、と反論する人がいるだろう。しかし、これは共同作業を必要としなくなった音楽が、「日本では過度なギターの使用」、「アメリカではギターの不要」というふたつの極端なアウトプットで現れてきているに過ぎないのだ。全世界的に、人々は「共同作業の成果」としての音楽を一切求めなくなった。それは急激に起きたことではなく、テクノロジーの進化に比例して徐々に起こってきた。それが臨界点を超えた結果、アメリカではついにエレキギターがそもそも不要となったし、逆に日本では、過度にエレキギターを必要とするケースが現れた。

バンド不要論についての反論をあらかじめ予測しておくと、前時代的なカッコ良さに注力した「ファッションとしてのバンド」というのは、ビジネスという意味でこれからも永遠に残り続けるだろう。それはぼくもまったく否定しない。しかし、「共同作業という意味においてのバンド」の存続危機の問題は、現在進行形で深刻化している。そしてエレキギターの消失、「米津玄師」の空前の大ヒットは、ぼくたちがその流れに抵抗するすべを持たなそうであることを端的に示している。

Rolling Stone誌の記事はやっぱり面白い

相変わらず、ローリングストーン誌の翻訳記事は、日本のライターの書く凡百の音楽記事よりも最高に面白い。
『絶滅寸前の危機、ギターソロはもはや過去の遺物なのか?』
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30710

 

本記事の中では、アメリカではポップスやR&Bにおいて、もはや「ギターが使用されているものは稀だ」と書かれているし、むしろロックバンドにおいてすらも、「ギターよりも弾力性に富んだビートやプログラミングを多用し、ギターソロらしきものは全くと言っていいほど耳にしない」状態になっているそうだ。他にも刺激的な表現を用いて読者を笑わせてくれる箇所があるので、その辺りはぜひ原文にアクセスしていただきたい。
たしかに、国内でも大ヒットしたレディ・ガガの『Poker Face』を聞いた際、10年前ぼくが感じたのも全く同じ感想だった。それは、「ポップソングがこれからこの方向で発展するならば、どうやらエレキギターは必要なくなりそうだな」というものである。


ぼくのこの感想をもう少し補強しておこう。最初に必要なくなったのはギターではない。実際には80年代のアメリカがポップミュージックを生み出し、それが日本に輸入される過程で「ドラム」「ベース」「ピアノ」が順番にその役割を終え、必要とされなくなった。例えば、宇多田ヒカルの『Automatic』のバックに流れているのは、ドラムらしき感触だけを残した、ただの「プログラミングされた電子音」である。このように代替可能な電子音で生楽器を置き換えていくことをぼくたちは「打ち込み」「カラオケ」などと呼んでいるが、「打ち込み」によって真っ先に雇用を奪われたのはドラマーだったのだ。


しかし、そのように生演奏する楽器がその役割を次々に終えていく中で、なぜかエレキギターだけは残り続けた。それは日本を代表する電子音楽の巨匠、小室哲哉の楽曲を聞けば明らかである。彼がglobeで作曲したデビュー曲『Feel like dance』では、近未来的なサウンドを志向して電子ピアノ、シンセサイザーによるプログラミングで伴奏を構成している。しかし5枚目のシングル『Freedom』以降、小室哲哉は近未来サウンドに対し早々に限界を感じたらしく、あっさりとエレキギターを濫用している。そのギターは実際サウンドの要と言ってもいいぐらいで、彼の代名詞シンセサイザーは、サウンドを彩るいわば「ふりかけ」のような存在に成り下がってしまう。同様に、浅倉大介西川貴教による「T.M.Revolution」でもエレキギターは重要な存在だ。パワフルな歌唱力をウリにする西川貴教に「ハードなイメージ」をマッチさせるために用いられたのは、やはりシンセサイザーでなくエレキギターだった。また、エレキギターが伴奏の中心になっただけでなく、彼らは小室哲哉があまり好んで用いなかった「間奏、休憩時間としてのギターソロ」をかなり積極的に採用している。


エレキギターが必要とされ続けたのにはいくつか理由がある。そのうち主要なものをあえて選ぶなら、1.伴奏に最適な中音域の重厚さを持っているから、2.代替電子音でそのニュアンスを再現できなかったから、3.最もアクセスしやすいインターフェースだから、の3点に尽きる。このことを長々と説明するともういろいろと終ってしまうので、ここでは一旦省略させていただく。


ともかく、このように幾度となく訪れた「電子音による代替、失業」の危機を乗り越えてきたエレキギターは、いま祖国アメリカにおいて絶滅寸前の危機に瀕している。この文脈で考えるならば事態は一層深刻で、なおのこと興味深いものだ。

『読まれなかった手紙について』について

友達のバンド「CokeColor,DearSummer」の曲に、『読まれなかった手紙について』という曲がある。ぼくはこの曲がとても好きなので、その好きな理由について書いてみようと思う。ちなみに、mvもちゃんと作っていて、彼らの曲は以下のURLから視聴が可能だ。親切設計すぎて助かる。
https://www.youtube.com/watch?v=uSB772rXyJ

 

ところで、『読まれなかった手紙について』は最近あまり聴けていない。前回下北沢のモナレコードのライブでもやられなかった曲だ。そのやらなかった曲のことをあえて書くというのはいかがなものか…という感じもするのだが、それは友達ということもあるし、これから先聴けるように、ある種の期待を込めて…ということで容赦していただく。

 

『読まれなかった手紙について』は、手紙について歌っている。それは現代に生きるぼくたちにとっては少し奇妙に思える。なぜなら、ぼくたちが生きる2019年現在では、文字を使った人々のコミュニケーションはビジネスなら電子メールだし、プライベートに目を転じれば、圧倒的にLINEやSNSを用いた通信手段がぼくたちの生活の大部分を占めるようになっているからだ。まさに、電子メールすら既に古いツールとなった時代にいることを思い返して欲しい。
LINEやSNSと違い、手紙という媒体はきわめて不安定な存在である。LINEはネットワークに接続している限り、必ず相手に送信することができる。また、「既読」がつけばそのメッセージは相手に必ず届き、それが読まれたことも一瞬のうちにわかるシステムになっている。電子メールであっても、ビジネスでは「メールを読みました」ということを相手に送りあうことが定例になっているし、もし、返事がなければ「メール読みましたか?」という連絡もすることができる。その文章は通信途中でロストしてしまったとか、送信できなかったという可能性はほとんどない。このような現代の通信手段から目を転じれば、手紙でのやりとりというのは非常にあいまいであり、そもそも相手に届いたのかすらわからない。もしかしたら配達員がゴミ捨て場に捨ててしまうかもしれないし、間違って違う宛先に届いてしまうことだってある。また、正しくそれが届いたとしても、それが実際に読まれたことを確認する手段はない。それが手紙というツールの特徴である。

手紙は絶えず、その内容が正しく相手に伝わらなかったり、間違った宛先に届いたり、間違った解釈をして読まれる可能性にさらされている。だから、ぼくたちはつねに、「届かなかった手紙」のことや、「読まれなかった手紙」のことについて考えなければならない。しかしぼくはそれと同時に、「間違って手紙を受け取ってしまったけど結果OKだった」という可能性についても考えてみるべきだと思っている。


メールやLINEは必然性の世界である。必然性の世界は残酷だ。例えば、ぼくは楽譜が読めない。だからぼくが不幸にならないように、ピアノの先生や両親は、ぼくにピアノを弾かせることを諦めさせた。このことは必然性から考えて、極めて理論的だし正しいことだと思う。
けれども、実際のところ今のぼくはピアノを毎日弾いている。なぜか?それは、ピアノのことをあまりよく知らない仲間やバンドメンバーたちが、「あれ、なんかよくわかんないけど、ほぼうさ氏のピアノ意外といいんじゃない?」と適当に相槌をうち、それをぼくが真に受けたことに始まっているからだ。その適当さはもしかしたら、単に酔っぱらっていたり、話をするのが面倒だったのかもしれないし、あるいはぼくが傷つくのを避けるための優しさだったのだろう。しかし、その偶然性にみちた誤解こそが、今のぼくを成り立たせている。

これが、「間違ってメッセージを受け取ること」が生み出す可能性の世界である。それはつまり、必然性だけで構築する「メールやLINE」の世界ではない。偶然性や誤解、様々な可能性に開かれた「手紙」の世界なのだとぼくは考えている。

 

ぼくは、古谷峻が『読まれなかった手紙について』で、手紙が読まれなかったことへの絶望や不安、切なさを歌っているとは全く思っていない。むしろ逆である。彼は「その手紙がもしかしたら読まれたかもしれない」ことについて歌っているのだ。
確かに、意中の人には恋人ができて、現実にはメッセージは読まれなかったし、気持ちを伝えることはできなかった。それは単なる悲惨な出来事である。だけど、彼はメールやLINEでなく、手紙を題材にすることで、ぼくたちは「もしかしたらあの娘とつきあってたかもしれない未来」や、「あの手紙を読んでくれてたかもしれない並行世界」について夢想することができ、幸せな気分にひたることができる。そして、実はその「いくつかあり得たかもしれない、もうひとつの未来」を考えることこそが、本当にあの娘のことを想うことでもあるし、悲惨な現実を偶然性の世界に拡張させ、幸福へと好転できる可能性にも繋がる。

 

「読まれなかった手紙について」考えることは、「もしかしたら手紙が読まれたのかもしれない、もうひとつの可能性」について考えることである。だからぼくはこの曲が好きだ。そして、またライブで聴けることを期待して、ここで筆をおくことにする。

アニメのゴジラ3部作を見たので、まったり投下していく日記

アニメ版ゴジラGODZILLA『怪獣惑星』、『決戦機動増殖都市』、そして『星を喰う者』をすべて見終えた。
本作品群はどれも劇場版であり、映画館で半年おきくらいのペースで上映された。1作目の『怪獣惑星』のあとはかなり引き込まれて次回作が気になる展開となり、最後までテンションを損なうことなく見続けることができた。できれば3部一挙上映のような機会があればまた見に行きたいくらいの、素晴らしい出来だったことを最初に断っておこう。

 

アニメにおいてゴジラをやろうとなったのは、昨今のシンゴジラに始まるゴジラブームが背景にある。このアニメを終えた後、さらにハリウッドでは同じようにキングギドラと闘うゴジラの実写映画が上映される予定だし、しばらくはこの「ジャパニーズ特撮の夢を蘇らせる。その象徴たるゴジラ」の熱はまだ止みそうにない。

 

1作目『怪獣惑星』は、最初、ゴジラの襲撃により人類が地球を離れ、何光年か移動して居住可能な惑星を探したのだが、食料や燃料など資源の枯渇にぶちあたる。結局ふたたび地球へと戻るのだが、長距離亜空間航行によって生じた時空の歪みによって二万年後の地球に降り立つ…というところから始まる。ここで降り立つのは地球であって、既に地球でない。故郷の惑星でありながら、未知の生命体がいるかもしれない惑星。そこに探査を目的として宇宙船から調査隊が降り立つのだ。

 

それにしても「植民船が人間を乗せ、居住可能な惑星を探索しながら、未知の生命体と邂逅する」…ぼくたちは、この設定を何度見たことだろう。マクロスでもそうだったし、リドリースコットのエイリアンでもそんな設定があった気がする。つまり、アニメで描かれるゴジラは極めてベーシックなSFからはじまるのである。
比較するなら、たとえばシンゴジラが描いた世界では、限りなく実感覚に近い日本人たちが意思決定に苦しみながらわちゃわちゃする。この路線をリアルな現実社会に突如怪物が現れ、人々に混乱をもたらすような「怪獣、パニック映画」とするならば、アニメ版ゴジラはそれとはまったく別路線と言えよう。近未来で退廃した人類たちの、文明が進んだゆえに持つ葛藤が織り成すSFの物語である。

 

さて、唐突に思われるかもしれないが、『怪獣惑星』は女子…いや、腐女子のための映画である。まず、この映画の「キャラクター」の項に行き、登場人物をチェックすると、女が1人しかいないことに気がつく。これはおかしい。11人中の1人…10%を下回るいびつな男女比だ。しかも、その貴重な女子キャラである「ユウコ」の設定がこれまたひどく薄い。「主人公ハルオの幼なじみ。以上!」みたいな、紙のようにペラペラな設定だ。まるっきり、この女子の内面にあえて触れるような骨太な物語を紡いでいく…という意志を感じない。
近年このようないびつな男女比でストーリーが進むアニメを例に挙げると、弱虫ペダル黒子のバスケ、…健全な少年向けアニメとは言いがたいものが多いのもポイントだろう。
加えて、起用している男性声優陣を紹介しよう。宮野 真守、櫻井 孝宏、杉田 智和、梶 裕貴小野 大輔、諏訪部 順一…この顔ぶれだけを見ると、もはや力の入れ方が普通のアニメでないのは一目瞭然だ。男性アイドルグループが歌って踊ってグループ内でホモ的な展開のする例の「腐女子ホイホイアニメ」じゃないかと見紛うくらいである。

 

なにを言っているんだ、これは健全なアニメじゃないか!と反論される方もいるかと思う。だから、ぼくが言っていることを理解してもらうためにはまず、「BL」の前身となった「やおい文化」、そして腐女子という関係性を理解してもらう必要があるだろう。


やおい文化」は、少年向けに最適化され少女がほぼ排除されてしまった「スポ根マンガ」、「格闘ポルノマンガ」に対する一種の抵抗…二次創作性から生まれている。
ここでいう「スポ根マンガ」「格闘ポルノマンガ」は『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』に相当する。これらの物語は、男の子がファンタジー世界に燃えられるよう最適化されており、徹底的に女子性が排除されているか、少なくとも傍観者のような位置づけになっている。ストーリーの主体はボーイミーツガールでなく、明らかに戦いを通じた少年同士のアツいぶつかり合い、友情の尊さにある。


本来、このようなポルノ的ともいえる男子優位の一方的な世界観に女子が入り込む隙などなかった。しかし、その排除されてしまった女子が、敢えて物語を読み替え、「星矢と紫龍は実はお互い惹かれあっていて、戦いのたびにときめきあっている…」というホモ話を二次的に創作しはじめたのだ。


彼女たちは、作品の中から「星矢、紫龍」「翼、岬」などのキャラクターをプログラムとして抽出し、少年同士の関係をあえて誇張して「同人誌」を創作する。その結果、「同人誌」の中の「星矢」たちはオリジナルからは似ても似つかぬものへと豹変しているわけだが、そこでは「原作で描かれていること、オリジナルのストーリー」よりも「あえて読み替えた少年たちの純愛ホモ」のほうがトオトイ…という、まさに「価値反転」が起こっているのだ。


この価値反転こそまさに「やおい文化」、そして腐女子を語る上で最も重要である。そこにはもはや、オリジナルと二次創作の間の優劣は存在しない。原作に描かれていないからウソである間違っている、という指摘こそが全く無意味になり、少女たちは「原作から勝手に妄想した少年同士の関係の敢えてのななめ読み」に快感を覚える。

 

『怪獣惑星』は決して、たとえば「ハルオとメトフィエスは付き合っている」というような事実を描かない。それは描かないばかりか、ひとつの間違った解釈に過ぎない。ところが、いま見たとおり、そのような「エビデンス厨」的な指摘は無意味なのである。腐女子は、はっきりと描かれない少年同士の間にこそ、あえて誇張したホモ関係をななめ読みし、悦に浸る。
もし、もうすでにハルオとメトフィエスがつきあってしまっていたとしたら、そこにはななめ読みする余地がなく、イージーモードである。そのようなハッキリホモに関心を示すのは、ただのニワカ…ホモ好きなお姉さんに過ぎず、腐女子とはとても呼べない。そういう意味で、この作品はいわば「古参」、クラシックなBLファンに向けて徹底的に愛されるように作りこんである。プライドを持った重厚な作品なのだ。

 

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著, 講談社現代新書) を読みました-2

前回、いまの音楽業界におけるフェス人気やライブの動員熱が過熱状態にあり、早晩そのような熱に浮かれた状態は今後沈静化していくだろうことを述べた。それはまさしく、今のアメリカや日本の景気もしくは株価の状況のようである。いくら盛り上がってて楽しい!ライブ最高!と言われたって一般人には「どこが?」というくらい、別世界で起こっているような出来事でもあり、過熱しすぎた投機的ギャンブルの行く末を覗いているような気分でもある。

 

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著) の本のおわりに、著者はこんなことを言っているので引用する。

 

↓↓↓引用ここから↓↓↓

今の日本の音楽シーンは、とても面白い。…アーティストたちは百花繚乱の活躍を見せているし、ビジネスとしてもようやく低迷期を脱しようとしている。…おそらく、この先は、さらに巨大な規模で地球全体を覆いつくすグローバルなポップカルチャーと、ローカルな多様性を持って各地に根付き国境を越えて手を結び合うアートやサブカルチャーとの、新たなせめぎ合いが生まれる時代がやってくる予感がしている。

↑↑↑引用ここまで↑↑↑

 

どうだろうか?このブログをご覧の聡明な読者の皆さんは、あまりに楽天的だ、と思ったに違いない。つまり、彼の言う未来がまだ来ていないことを知っているし、そしておそらくこれから先、そんな未来が永遠に来ないことも知っている。

 

ぼくがもっと若いころ、10年後の音楽はもっともっと発展していて、ぼくは自分の好きな、才能あるアーティストたちの作った音楽に包まれて暮らしている未来を夢見ていた。だが、現実にそんな幸せな未来は少しも訪れはしなかった。
地球全体を覆いつくすグローバルなポップカルチャーは地道に活動するローカルアーティストと手を取り合うことはなく、資本の論理のみが支配する世界をもたらした。ローカルアーティストたちは音楽を毟り取られ、「奇抜なことやれば、おれもワンチャンあるかも」という不毛なせめぎ合いを生む。
だから才能ある天才は早い段階でつぶされるか、良貨が悪貨に駆逐されるように偽者によって排除される。その代わりに、セカオワのフカセやゲスの川谷のような「投機熱の波に乗った究極のお調子者」たちがヒットチャートを賑わせる。

 

ぼくも予言めいたことを言わせてもらうなら、ぼくたちはこれから先10年20年…もずっと、1990年代に作られたポップソングを「あの頃の音楽は本当に輝いてた!」と言いながら、遺産を食いつぶしていくに違いない。ぼくたちは、あの頃夢みた「ありえたかもしれない、もうひとつの可能性」のことを想いながら、ずっとこの先も音楽シーンに絶望し続けて生きていくのだろう。これはほとんど確定している。
ぼくたちが失った未来…「大好きな音楽たちに包まれて生きる世界」を取り戻すためには、むしろそのようなグローバルなポップカルチャーがもたらす資本の原理にこそ徹底的に抵抗し、新しい連帯の形を作り上げていかなければならないのである。

 

結論的に言えば、今の音楽界はまったく面白くないし、楽しい未来も来ない。グローバルなポップカルチャーは資本の論理によって音楽文化を根こそぎ破壊しつくす。ぼくたちは永遠に過ぎ去った90年代を愛し続けながら、あの頃考えた「可能性の未来」を夢想して生きていく。

ぼくはそんな世界が嫌だから、抵抗しつづけたい。そんな思いをこめて、「新しい連帯の形」というイベントタイトルをつけた。
そのことを言うのを忘れていたから、1ヶ月後にこのブログで書くことになったことを許して欲しい。