ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『読まれなかった手紙について』について

友達のバンド「CokeColor,DearSummer」の曲に、『読まれなかった手紙について』という曲がある。ぼくはこの曲がとても好きなので、その好きな理由について書いてみようと思う。ちなみに、mvもちゃんと作っていて、彼らの曲は以下のURLから視聴が可能だ。親切設計すぎて助かる。
https://www.youtube.com/watch?v=uSB772rXyJ

 

ところで、『読まれなかった手紙について』は最近あまり聴けていない。前回下北沢のモナレコードのライブでもやられなかった曲だ。そのやらなかった曲のことをあえて書くというのはいかがなものか…という感じもするのだが、それは友達ということもあるし、これから先聴けるように、ある種の期待を込めて…ということで容赦していただく。

 

『読まれなかった手紙について』は、手紙について歌っている。それは現代に生きるぼくたちにとっては少し奇妙に思える。なぜなら、ぼくたちが生きる2019年現在では、文字を使った人々のコミュニケーションはビジネスなら電子メールだし、プライベートに目を転じれば、圧倒的にLINEやSNSを用いた通信手段がぼくたちの生活の大部分を占めるようになっているからだ。まさに、電子メールすら既に古いツールとなった時代にいることを思い返して欲しい。
LINEやSNSと違い、手紙という媒体はきわめて不安定な存在である。LINEはネットワークに接続している限り、必ず相手に送信することができる。また、「既読」がつけばそのメッセージは相手に必ず届き、それが読まれたことも一瞬のうちにわかるシステムになっている。電子メールであっても、ビジネスでは「メールを読みました」ということを相手に送りあうことが定例になっているし、もし、返事がなければ「メール読みましたか?」という連絡もすることができる。その文章は通信途中でロストしてしまったとか、送信できなかったという可能性はほとんどない。このような現代の通信手段から目を転じれば、手紙でのやりとりというのは非常にあいまいであり、そもそも相手に届いたのかすらわからない。もしかしたら配達員がゴミ捨て場に捨ててしまうかもしれないし、間違って違う宛先に届いてしまうことだってある。また、正しくそれが届いたとしても、それが実際に読まれたことを確認する手段はない。それが手紙というツールの特徴である。

手紙は絶えず、その内容が正しく相手に伝わらなかったり、間違った宛先に届いたり、間違った解釈をして読まれる可能性にさらされている。だから、ぼくたちはつねに、「届かなかった手紙」のことや、「読まれなかった手紙」のことについて考えなければならない。しかしぼくはそれと同時に、「間違って手紙を受け取ってしまったけど結果OKだった」という可能性についても考えてみるべきだと思っている。


メールやLINEは必然性の世界である。必然性の世界は残酷だ。例えば、ぼくは楽譜が読めない。だからぼくが不幸にならないように、ピアノの先生や両親は、ぼくにピアノを弾かせることを諦めさせた。このことは必然性から考えて、極めて理論的だし正しいことだと思う。
けれども、実際のところ今のぼくはピアノを毎日弾いている。なぜか?それは、ピアノのことをあまりよく知らない仲間やバンドメンバーたちが、「あれ、なんかよくわかんないけど、ほぼうさ氏のピアノ意外といいんじゃない?」と適当に相槌をうち、それをぼくが真に受けたことに始まっているからだ。その適当さはもしかしたら、単に酔っぱらっていたり、話をするのが面倒だったのかもしれないし、あるいはぼくが傷つくのを避けるための優しさだったのだろう。しかし、その偶然性にみちた誤解こそが、今のぼくを成り立たせている。

これが、「間違ってメッセージを受け取ること」が生み出す可能性の世界である。それはつまり、必然性だけで構築する「メールやLINE」の世界ではない。偶然性や誤解、様々な可能性に開かれた「手紙」の世界なのだとぼくは考えている。

 

ぼくは、古谷峻が『読まれなかった手紙について』で、手紙が読まれなかったことへの絶望や不安、切なさを歌っているとは全く思っていない。むしろ逆である。彼は「その手紙がもしかしたら読まれたかもしれない」ことについて歌っているのだ。
確かに、意中の人には恋人ができて、現実にはメッセージは読まれなかったし、気持ちを伝えることはできなかった。それは単なる悲惨な出来事である。だけど、彼はメールやLINEでなく、手紙を題材にすることで、ぼくたちは「もしかしたらあの娘とつきあってたかもしれない未来」や、「あの手紙を読んでくれてたかもしれない並行世界」について夢想することができ、幸せな気分にひたることができる。そして、実はその「いくつかあり得たかもしれない、もうひとつの未来」を考えることこそが、本当にあの娘のことを想うことでもあるし、悲惨な現実を偶然性の世界に拡張させ、幸福へと好転できる可能性にも繋がる。

 

「読まれなかった手紙について」考えることは、「もしかしたら手紙が読まれたのかもしれない、もうひとつの可能性」について考えることである。だからぼくはこの曲が好きだ。そして、またライブで聴けることを期待して、ここで筆をおくことにする。

アニメのゴジラ3部作を見たので、まったり投下していく日記

アニメ版ゴジラGODZILLA『怪獣惑星』、『決戦機動増殖都市』、そして『星を喰う者』をすべて見終えた。
本作品群はどれも劇場版であり、映画館で半年おきくらいのペースで上映された。1作目の『怪獣惑星』のあとはかなり引き込まれて次回作が気になる展開となり、最後までテンションを損なうことなく見続けることができた。できれば3部一挙上映のような機会があればまた見に行きたいくらいの、素晴らしい出来だったことを最初に断っておこう。

 

アニメにおいてゴジラをやろうとなったのは、昨今のシンゴジラに始まるゴジラブームが背景にある。このアニメを終えた後、さらにハリウッドでは同じようにキングギドラと闘うゴジラの実写映画が上映される予定だし、しばらくはこの「ジャパニーズ特撮の夢を蘇らせる。その象徴たるゴジラ」の熱はまだ止みそうにない。

 

1作目『怪獣惑星』は、最初、ゴジラの襲撃により人類が地球を離れ、何光年か移動して居住可能な惑星を探したのだが、食料や燃料など資源の枯渇にぶちあたる。結局ふたたび地球へと戻るのだが、長距離亜空間航行によって生じた時空の歪みによって二万年後の地球に降り立つ…というところから始まる。ここで降り立つのは地球であって、既に地球でない。故郷の惑星でありながら、未知の生命体がいるかもしれない惑星。そこに探査を目的として宇宙船から調査隊が降り立つのだ。

 

それにしても「植民船が人間を乗せ、居住可能な惑星を探索しながら、未知の生命体と邂逅する」…ぼくたちは、この設定を何度見たことだろう。マクロスでもそうだったし、リドリースコットのエイリアンでもそんな設定があった気がする。つまり、アニメで描かれるゴジラは極めてベーシックなSFからはじまるのである。
比較するなら、たとえばシンゴジラが描いた世界では、限りなく実感覚に近い日本人たちが意思決定に苦しみながらわちゃわちゃする。この路線をリアルな現実社会に突如怪物が現れ、人々に混乱をもたらすような「怪獣、パニック映画」とするならば、アニメ版ゴジラはそれとはまったく別路線と言えよう。近未来で退廃した人類たちの、文明が進んだゆえに持つ葛藤が織り成すSFの物語である。

 

さて、唐突に思われるかもしれないが、『怪獣惑星』は女子…いや、腐女子のための映画である。まず、この映画の「キャラクター」の項に行き、登場人物をチェックすると、女が1人しかいないことに気がつく。これはおかしい。11人中の1人…10%を下回るいびつな男女比だ。しかも、その貴重な女子キャラである「ユウコ」の設定がこれまたひどく薄い。「主人公ハルオの幼なじみ。以上!」みたいな、紙のようにペラペラな設定だ。まるっきり、この女子の内面にあえて触れるような骨太な物語を紡いでいく…という意志を感じない。
近年このようないびつな男女比でストーリーが進むアニメを例に挙げると、弱虫ペダル黒子のバスケ、…健全な少年向けアニメとは言いがたいものが多いのもポイントだろう。
加えて、起用している男性声優陣を紹介しよう。宮野 真守、櫻井 孝宏、杉田 智和、梶 裕貴小野 大輔、諏訪部 順一…この顔ぶれだけを見ると、もはや力の入れ方が普通のアニメでないのは一目瞭然だ。男性アイドルグループが歌って踊ってグループ内でホモ的な展開のする例の「腐女子ホイホイアニメ」じゃないかと見紛うくらいである。

 

なにを言っているんだ、これは健全なアニメじゃないか!と反論される方もいるかと思う。だから、ぼくが言っていることを理解してもらうためにはまず、「BL」の前身となった「やおい文化」、そして腐女子という関係性を理解してもらう必要があるだろう。


やおい文化」は、少年向けに最適化され少女がほぼ排除されてしまった「スポ根マンガ」、「格闘ポルノマンガ」に対する一種の抵抗…二次創作性から生まれている。
ここでいう「スポ根マンガ」「格闘ポルノマンガ」は『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』に相当する。これらの物語は、男の子がファンタジー世界に燃えられるよう最適化されており、徹底的に女子性が排除されているか、少なくとも傍観者のような位置づけになっている。ストーリーの主体はボーイミーツガールでなく、明らかに戦いを通じた少年同士のアツいぶつかり合い、友情の尊さにある。


本来、このようなポルノ的ともいえる男子優位の一方的な世界観に女子が入り込む隙などなかった。しかし、その排除されてしまった女子が、敢えて物語を読み替え、「星矢と紫龍は実はお互い惹かれあっていて、戦いのたびにときめきあっている…」というホモ話を二次的に創作しはじめたのだ。


彼女たちは、作品の中から「星矢、紫龍」「翼、岬」などのキャラクターをプログラムとして抽出し、少年同士の関係をあえて誇張して「同人誌」を創作する。その結果、「同人誌」の中の「星矢」たちはオリジナルからは似ても似つかぬものへと豹変しているわけだが、そこでは「原作で描かれていること、オリジナルのストーリー」よりも「あえて読み替えた少年たちの純愛ホモ」のほうがトオトイ…という、まさに「価値反転」が起こっているのだ。


この価値反転こそまさに「やおい文化」、そして腐女子を語る上で最も重要である。そこにはもはや、オリジナルと二次創作の間の優劣は存在しない。原作に描かれていないからウソである間違っている、という指摘こそが全く無意味になり、少女たちは「原作から勝手に妄想した少年同士の関係の敢えてのななめ読み」に快感を覚える。

 

『怪獣惑星』は決して、たとえば「ハルオとメトフィエスは付き合っている」というような事実を描かない。それは描かないばかりか、ひとつの間違った解釈に過ぎない。ところが、いま見たとおり、そのような「エビデンス厨」的な指摘は無意味なのである。腐女子は、はっきりと描かれない少年同士の間にこそ、あえて誇張したホモ関係をななめ読みし、悦に浸る。
もし、もうすでにハルオとメトフィエスがつきあってしまっていたとしたら、そこにはななめ読みする余地がなく、イージーモードである。そのようなハッキリホモに関心を示すのは、ただのニワカ…ホモ好きなお姉さんに過ぎず、腐女子とはとても呼べない。そういう意味で、この作品はいわば「古参」、クラシックなBLファンに向けて徹底的に愛されるように作りこんである。プライドを持った重厚な作品なのだ。

 

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著, 講談社現代新書) を読みました-2

前回、いまの音楽業界におけるフェス人気やライブの動員熱が過熱状態にあり、早晩そのような熱に浮かれた状態は今後沈静化していくだろうことを述べた。それはまさしく、今のアメリカや日本の景気もしくは株価の状況のようである。いくら盛り上がってて楽しい!ライブ最高!と言われたって一般人には「どこが?」というくらい、別世界で起こっているような出来事でもあり、過熱しすぎた投機的ギャンブルの行く末を覗いているような気分でもある。

 

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著) の本のおわりに、著者はこんなことを言っているので引用する。

 

↓↓↓引用ここから↓↓↓

今の日本の音楽シーンは、とても面白い。…アーティストたちは百花繚乱の活躍を見せているし、ビジネスとしてもようやく低迷期を脱しようとしている。…おそらく、この先は、さらに巨大な規模で地球全体を覆いつくすグローバルなポップカルチャーと、ローカルな多様性を持って各地に根付き国境を越えて手を結び合うアートやサブカルチャーとの、新たなせめぎ合いが生まれる時代がやってくる予感がしている。

↑↑↑引用ここまで↑↑↑

 

どうだろうか?このブログをご覧の聡明な読者の皆さんは、あまりに楽天的だ、と思ったに違いない。つまり、彼の言う未来がまだ来ていないことを知っているし、そしておそらくこれから先、そんな未来が永遠に来ないことも知っている。

 

ぼくがもっと若いころ、10年後の音楽はもっともっと発展していて、ぼくは自分の好きな、才能あるアーティストたちの作った音楽に包まれて暮らしている未来を夢見ていた。だが、現実にそんな幸せな未来は少しも訪れはしなかった。
地球全体を覆いつくすグローバルなポップカルチャーは地道に活動するローカルアーティストと手を取り合うことはなく、資本の論理のみが支配する世界をもたらした。ローカルアーティストたちは音楽を毟り取られ、「奇抜なことやれば、おれもワンチャンあるかも」という不毛なせめぎ合いを生む。
だから才能ある天才は早い段階でつぶされるか、良貨が悪貨に駆逐されるように偽者によって排除される。その代わりに、セカオワのフカセやゲスの川谷のような「投機熱の波に乗った究極のお調子者」たちがヒットチャートを賑わせる。

 

ぼくも予言めいたことを言わせてもらうなら、ぼくたちはこれから先10年20年…もずっと、1990年代に作られたポップソングを「あの頃の音楽は本当に輝いてた!」と言いながら、遺産を食いつぶしていくに違いない。ぼくたちは、あの頃夢みた「ありえたかもしれない、もうひとつの可能性」のことを想いながら、ずっとこの先も音楽シーンに絶望し続けて生きていくのだろう。これはほとんど確定している。
ぼくたちが失った未来…「大好きな音楽たちに包まれて生きる世界」を取り戻すためには、むしろそのようなグローバルなポップカルチャーがもたらす資本の原理にこそ徹底的に抵抗し、新しい連帯の形を作り上げていかなければならないのである。

 

結論的に言えば、今の音楽界はまったく面白くないし、楽しい未来も来ない。グローバルなポップカルチャーは資本の論理によって音楽文化を根こそぎ破壊しつくす。ぼくたちは永遠に過ぎ去った90年代を愛し続けながら、あの頃考えた「可能性の未来」を夢想して生きていく。

ぼくはそんな世界が嫌だから、抵抗しつづけたい。そんな思いをこめて、「新しい連帯の形」というイベントタイトルをつけた。
そのことを言うのを忘れていたから、1ヶ月後にこのブログで書くことになったことを許して欲しい。

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著, 講談社現代新書) を読みました-1

タイトルに連番をつけたのは、なんとなく内容が長くなってしまうと思われたためである。だから、どのくらいボリュームを書くのかは全く決めていないし、すぐに書き終わってしまうかもしれない。つまり特に意味はないので気にしないで欲しい。


本書は2016年に出版された書籍であるが、素晴らしい本だ。プロを目指している人、かつて目指していた人、そして目指してはいないがアマチュアで音楽をやっている人のすべてが読むべき必読の書である。その理由は、アマゾンレビュアーのixdxmさんが書いているとおり、『「音楽の今」を把握するための見取り図』としてよくまとまっていて、わかりやすいこと。そして、90年代の音楽バブルを生で体験してきた世代にとっては、音楽が不況になるありさまを捉えた取材の数々が、おおむねぼくらの体感と一致している点が素晴らしい。

本書はかなり売れているし、レビューはアマゾンだけに限らず山ほど出ているはずだ。だからぼくがいまさら内容をおさらいするようなレビューを書いても仕方ないし、そういうのはアマゾンとか別のサイトに投稿して「いいね!」とか「役に立った!」をもらってウハウハすべき事案である。だからぼくはレビューになるような内容は書かない。ウハウハすることもしない。もっと違った角度から、今の問題点を論じようと思う。

 

ぼくがここから最初に論じようと思うのは、ライブ、フェスの動員についてである。


まず、この本をざっくりと要約してしまうとこういうことになる。
「CDは売れなくなった。だけど売れ方が変わっただけ。ライブの動員は増えているし、フェスが盛り上がっている。海外で主流のストリーミングサービスがいよいよ入ってくるし、ヒットは違った形で生まれ変わりつつあって、今の音楽界はすごくおもしろい。これから楽しみ。以上。」


たしかに、ライブの動員が爆発的に伸びていることと、大型ロックフェスがそれなりに乱立して毎年のようににぎわっていることはぼくも知っている。それは動員記録ガーとか、入場規制ガーとか、そういうあらゆるデータが揃っているから反論のしようがない端的な事実である。消費者は手元に残るCDよりも、一回限りの「きっとプライスレス」な体験にこそお金を払おうとしている…こんな調子で「美談」として語られることも多いのは皆さんも感じておられることだと思う。


実は「思い出に残る経験こそが、もっとも希少価値のあるものである」という「ライブ重視戦略」は、すでに10年以上前から、アメリカで始まっている。どうしてアメリカでこのような潮流が生まれたのか…それは、アメリカ人が音楽が大好きで、アメリカが常に音楽シーンの先端をいっているから、ではない。アメリカこそまさに資本主義が徹底した国であり、ライブこそは音楽ビジネスにおいてもっとも儲かる部分であることが見出されたに過ぎないから、である。その儲かる部分を最大化するためにこそ、あえてCDを「無料音楽」というツールに置き換え、ライブの動員を増やす最適化戦略を採用したのだ。


ぼくが記憶しているかぎり、この潮流にいちはやく気づき、戦略的に採用したのがプリンスとレディオヘッドである。2007年、プリンスはアルバム『プラネットアース』を無料で配布し、ロンドンで21のコンサートを行う作戦に出た。チケットは完売し、過去最大のライブ動員を達成した。レディオヘッドは『イン・レインボウズ』のダウンロード価格を消費者につけさせるという常識破りの発想に出た。その後、行われたツアーではプリンス同様、過去最大のチケット売り上げ枚数を記録している。負けず嫌いのマイケルジャクソンが「This is it!」と銘打って、同じように数日にわたるコンサートを開催しようとしたが、無理が祟って亡くなってしまった。本当に痛ましい事件であった。

 

つまり、ぼくたちは気づくべきなのである。あたかもメディアが「消費者が自主的に体験型のライブを求め、思い出を得るために高いお金を喜んで払っている」かのように報道しているが、それは明らかに自主的でなく、むしろ扇動された結果なのだ、ということに。


その証拠に、各地に点在するライブハウスに動員が増えたという話など聞いたことがない。どこのライブハウスもいまや、瀕死の有様だ。ライブハウスはノルマという形でバンドに集客を押し付け、夢を叶えたいバンドたちの良心を搾取することによって、かろうじてその経営を維持している。ぼくらのバンドでも、特に顔も名前も存じ上げない音楽ファンがフラッと聴きに来てくれた、などというありがたい話はほとんどない。そんなことがあるとすれば夢のような、ありえない話だ。
しかし、仮にもし一般消費者が思い出に残る経験を求めてライブを重視しているのだとしたら、夢のようなありえない話は現実に起こっていてもおかしくない。ライブハウスには体験を求めたお客さんが毎週末訪れ、賑わい、バンドも脚光を浴びる。少なくとも、こんな寂れた現状にも光が射すようなことがあるはずだ。しかし現実には小さなライブハウスは経営に行き詰まり、バンドも活動休止を余儀なくされている。その一方で、フジロックサマーソニックといった大型フェスや、ミスチルラッドウィンプスラルクアンシェルといった「ビッグネーム」からは、毎年のように動員数を過去最大に更新した、入場規制を行った、等のとにかく景気のいい話が山のように聞こえてくる。
つまり、ぼくらは自主的に体験を求めてなどいない。莫大な資本を背景に、もっとも儲かる部分へと効率的に動員され、搾取されるよう扇動されているに過ぎないのだ。

 

「そんなことはない!おまえらのバンドがショボいだけで、現実にはライブで売れてるアーティストもたくさんいる。ミクロにはおまえらカスみたいなバンドしかいなくても、マクロには素晴らしいバンドがたくさんいて、フェスの動員もこれからずっと伸びていくに決まっている!」という人がいるかもしれない。いや、きっとたくさんいると思う。そんな人たちに向けて、衝撃的な記事を一本紹介しよう。


https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29216/2/1/1


↓↓↓引用ここから↓↓↓
2019年に巨大なフェスティバルを開始するというのは、天才的なアイデアか狂気の沙汰のどちらかだろう。毎年3200万人がフェスティバルに参加する一方で、ボナルーやSasquatch!などのフェスティバルでは近年観客が激減している(Sasquatch!は2019年の開催中止を発表した)。フェスティバルへの関心低下の原因についてメディアは辛辣な見方をしており、2017年には少なくとも3媒体で「音楽フェスティバルが多すぎないか?」というタイトルの記事が掲載されている。
(中略)フェスティバルが雨後の竹の子のように増えるに従って、出演者のラインナップが似通っている点を指摘する声も多く上がるようになっている(音楽メディアのピッチフォークは、ロラパルーザ、コーチェラ、ボナルーの3つのフェスティバル全部に出演したバンドの割合は、2005年が15%だったが、2017年では32%と倍以上になっていることを暴露している)。フェスティバルをハシゴするのが好きなファンにとって、フェスティバルごとの出演者と演奏曲の違いを見つけるのが困難になっているのだ。エミネムガンズ・アンド・ローゼズなどの人気アーティストたちは、フェスティバルでのヘッドライナー出演を一度限りの特別ライブとしてツアー日程の一部と捉えている向きもある。
音楽フェスティバルが劇的に増加した一因はストリーミング・サービスにある。つまり、ストリーミングによって実用的な音楽へのアクセス方法が豊富になり、音楽ファンがこれまで以上に個人的な音楽体験を求める方向へと向かったからといえる。しかし、いたるところでフェスティバルが開催される現在、熱く大騒ぎできるはずのフェスティバルが熱気のない型通りのものになりつつある。
↑↑↑引用ここまで↑↑↑

 

つまり2018年現在、アメリカやイギリス、ヨーロッパでは、すでに「フェス疲れ」という単語が一般化しており、ライブの動員が伸び悩むばかりか激減している。要するに、「かけがえのないプライスレスな体験」をライブに求めること自体がフィクションだったことに、みな気づき始めたのである。


アメリカの音楽業界がライブ重視戦略を完全に採用したのが2007年。そこから3年ほど遅れて、日本もライブの動員が伸びてきた。だから、いまから約3年くらいして、日本のオーディエンスはおそらく「フェスに疲れ」はじめるだろう。

 

CDも売れない、ヒットするアーティストも育てられない。かろうじてフェスやライブの動員は良かったが、そうして頼みの綱の動員が「フェス疲れ」してしまったら、日本の音楽業界に一体何が残るのだろうか?
ぼくはいまの「音楽界はいま楽しいし、これからも楽しみ」という楽観的なムードがとても嫌いだし、危惧を覚えずにはいられない。

ワンマンライブを終えて

ライブにお越しくださった素晴らしい皆様には既におわかりだと思うが、ぼくらはワンマンライブというより、コンサートを開催した。それも名実ともに、である。結果は盛況だった…と信じたいところだが、ツイッターフェイスブックなどでぼくの悪口が書かれていないところを見る限り、一定の水準はクリアしていたようだ。
実際に来られなかった方々に言葉だけで伝えるのはとても難しいのだが、ぼくらの体現した「ワンマンライブ」は、その実のところ「ワンマン!」や「ライブ!」といったパワーワードのもつマッチョなイメージからは相当かけ離れたものだった。見に来られた方は最初、その雰囲気のギャップに戸惑ったであろうと思うが、最終的には納得していただけたとぼくは感じている。

 

ぼくは高校生のときにオリジナルへヴィメタルのバンドをはじめてから、既に20年近く、バンド活動を続けている。だから20歳くらいのとき同じバンドのメンバーだったやつが解散後、軌道に乗った別のバンドでワンマンライブをする、といったものは何回も見に行ったし、特に深い関わりのなかった人でも「集客がないと困るんです、助けてください…」といった具合で誘われた場合はもちろん見に行ったりもした。しかし彼らに対していつもぼくが痛切に感じたのは、いわゆるバカ売れした「ビッグネーム」のバンドのライブを、どこかミニチュアで再現しようとしているな、ということである。
実は、ぼくはそれでもかまわないと思っている。消費者は基本的に、同じものしか求めない。どこかで見たことある演出、完全なコピーじゃないけども聞き覚えのある曲調、歌、フレーズ…そういうものに敏感に反応して、肯定的な評価を下すのが消費者だ。消費者は保守的である。だからミスチルの、東京事変の、チャットモンチーの、そしてバンプオブチキンの反復しか求めない。現に2年前、あのラッドウィンプスが「君の名は」でバカ売れしたことにそれは表れている。「新しい音楽の形を求める先鋭的な消費者」がそこにいたのではない。そこにいたのは、ただ単に同じ味の反復を求めた保守的な消費者像があったに過ぎないのだ。
だから、成功を目指すバンドマンが自分のワンマンライブで、バカ売れしたアーティストの反復を試みるのはまったく正しいことだと思う。消費者は同じものが反復して生産され、提供されることを望んでいるし、それによってバンドは「売れる」。「売れる」とは経済的な規模の拡大を意味し、多くの人が潤い、雇用がうまれ、人々が幸せになることを意味する。

 

しかし、残念ながら音楽が売れ続けることは絶対にない。それは音楽に限ることではないが、歴史が証明している。だから永遠に拡大し続けるだろうと思われたぼくらのしあわせは、どこかで必ず限界にぶち当たるだろう。そうして限界にぶち当たったとき、同じことの反復は解決策を与えてはくれない。無限の反復は、永遠とも思える後退戦をジリジリと凌いでいくだけの地獄へと変貌するように感じるはずだ。
ぼくは、じつはアーティストこそがその無限の反復から抜け出し、新しい世界を提示するべき存在なのだと信じている。ぼくらはワンマンライブじゃなくてコンサートを行ったし、ふつうライブじゃやらないようなことを強引に採り入れたりした。そこには、人々がかつて見たことがあるものと同じようなものや、かつて聴いたことのあるものと似たものは存在しなかったと思う。だから、ぼくらのやっていることは相変わらず一般の消費者に広く受け入れられることはない。けれども、今の音楽界は誰が見ても明らかなほど衰退し、限界にぶち当たっている。今ぼくらがやるべきは同じものの反復ではなく、新しい世界や価値観を生み出すこと―これこそがアーティストとしての最低限のモラルだと思って、コンサートをやりきったのだった。

 

アーティストとリスナーの垣根がなくなった時代だ、とよく言われる。世の中はリスナーが作詞作曲し、リスナーが演奏した動画に溢れている。しかしそうしたものは、多くの場合反復でしかない。垣根がなくなった時代だからこそ、アーティストがアーティストたるゆえんが問われているのだと思い、これからも頑張っていきたいし、ぼくらの後に続く若者たちには是非とも頑張って欲しいと思っている。

 

あ、先日お越しくださいました皆様、本当にありがとうございました。心から感謝を申し上げます!

固有名の更新されなさ

安室奈美恵が引退するにもかかわらず、それをきっかけとしたDVDやBDの類が売れに売れている。音楽関係がすっかり売れなくなったこのご時勢にミリオンセラーを記録しているというのだから、勝ち逃げイチぬけパターンの最高の形であるといっても過言ではない。


しかし同時にぼくが違和感を覚えたのは、安室奈美恵という固有名である。安室奈美恵はぼくが小学生のとき、すでにスーパーモンキーズとしてデビューしていた。その後、小室プロデュース時代を経て、結婚出産を機に落ち目の小室から脱出する。「エイベックス―マイルドヤンキー」的セールスがうまくはまり、単なるポップシンガーから不動のカリスマ歌姫へと価値観の変更を行うことができ、現在に至る。実に20年以上、あまりにも昔に世に出た固有名が現在も生きつづけているのである。

 

ぼくが記憶している限り、80年代後半から90年代前半までの固有名は更新されつづけるのが当たり前だった。たとえばボウイは1988年に解散していたが、翌年89年にはX JAPANがデビューし、ボウイは新しい音楽ではなくなっていた。
そうかと思えばオリコンチャートはミスチルスピッツを1位に押し上げていく。加えて、あんなゴリゴリした音楽は一般の人には合わないのだといわんばかりに、耳障りの軽い小室ミュージックが全盛期を迎える。へヴィメタなる単語は既に死語と化し、誰も思い出さなくなっていた。
ほどなくすると、軽くなりすぎた音楽へのバンドサウンドの揺り戻しとして、GLAYラルクアンシェル、ジュディアンドマリがあらわれる。後にも先にも、「バンド」という形態がここまで注目された時代はほかになかったであろう。既にtrf的なダンスポップスはダサくなりつつあった。
残念ながら、栄光はあっという間に過ぎ去るもの。宇多田ヒカルがデビューし、倉木麻衣MISIA小柳ゆきが登場すると、バンドというスタイルそのものが色あせはじめ、もはや古くなりつつあった。…

 

いま挙げたアーティストの変遷は、それぞれだいたい2年くらいのスパンで書いてある。つまり80年代後半から90年代は、その固有名が2年くらいの期間で更新されていくのが普通のことだったのだ。しかし2000年から2010年代になると、むしろ固有名は更新されなくなってくる。
ぼくはほとんど記憶がないけど、例えばおニャン子クラブは1985-1987年の2年ちょっとしか活動していない。しかしAKBはいま10年以上も活動していることになる。90年代が青春ど真ん中だったぼくらは、固有名の2年スパンでの更新があまりにも当然のことだと思ってしまっていたし、固有名が更新されないのは「わしも歳をとったからなあ…」というような、加齢による主観的な理由かと思っていたが、おにゃん子とAKBの比較からも明らかなように、どうやらその感覚は間違っているらしい。あくまでも客観的事実として、同じアーティストだけが長い間反復して支持されていることが明らかになってくる。

 

これは一体なにを表しているのだろう?90年代は一貫して、消費者の動向が新しい価値観こそが最先端でオシャレであるという明確な意識に基づいていたことがわかるだろう。GLAYのファンだった同級生のミーハー男子が、2年もしないうちにシャズナのメルティラブにハマっていたことに代表されるように、2年も前の音楽やアーティスト、バンドはもう古くてダサかった。ところが、2000年以降、消費者は急激に保守化し、アーティストに安定、落ち着き、癒し、変わらなさを求めるようになったのだ。ミスチルやサザンなどのビッグネームが異様ともいえる底堅いファン需要によって、ものすごい勢いでエスタブリッシュメントになるのもこの頃である。

 

そもそも、消費者の欲望とはそういうものかもしれない。同じものの反復、変わらなさこそが堅い需要を生みだし、産業を支えていく。本来、新しい音楽的価値観などは不要なものなのだ。


安室奈美恵という固有名がいまも更新されず売れているのも、基本的には消費者の保守的な欲望をダイレクトに表しているだろう。安室奈美恵は現在40歳だが、40歳でもその美貌と美しいスタイルを維持していることが人気の一番の秘訣なのだという。つまり、安室奈美恵はアーティストとしての新規性、カリスマなどがきっかけとして売れているわけではない。安心、安定を求める消費者に、その「変わらなさ」こそが評価されていたのだと言える。

ジュラシックワールド2 炎の王国をみました

ジュラシックワールド』とは、20年以上も前の作品『ジュラシックパーク』から派生する、あらたな恐竜アクション―パニック映画である。『ジュラシックパーク』については、もはや説明は不要だろう。いや、若い読者はひょっとしたら逆に知らないかもしれない。しかし、そもそも若い人はこんなところに来ないか。スティーブン・スピルバーグ監督が、当時最先端だったCG技術を駆使して、恐竜を現代に蘇らせたという伝説的なハリウッド映画である。ストーリー自体も、遺伝子工学を用いた生物学の技術によって現代に蘇った恐竜が脱走、繁殖などして襲い掛かってくる。そこから主人公たちが逃げ惑うアクション―パニックものになっており、複雑なメッセージよりもむしろ、画面の中でリアルな恐竜が動くそのさまを見ることが目的だったといっても過言でなかった。


ジュラシックワールド』の1作目は3年前に公開されているが、作品の内容、メッセージ性はほとんど『ジュラシックパーク』と同じである。科学者や管理する人間たちの驕りから、恐竜が檻から脱走し、パークをパニックに陥れる。『パーク』との違いは、主人公が理科系研究者-学者同士のカップルではなくなり、若い美人経営者と海兵隊出身のバンカラ野郎のコンビになったところである。このあたりも時代性をはっきり表しているのだが、当時は大学の学者、研究者であることがステータスでありえた。20年前、大学の研究は夢があり、研究はかっこよかった。なにより、研究成果はぼくらの社会を豊かにするものに直結すると信じて疑われなかった時代である。「末は学者か先生か…」これは頭がいい子に対して親や親戚が言った言葉である。だが今はそんな幻想ははっきり失われている。学者は有期雇用で給料も低い。いつまでも研究生活などしていられないから、好きなことをあきらめて就職しなさいと周りから諌められる日々。先生はモンスターペアレンツのクレームに追われ、ブラック企業並みのサービス残業をする日々だ。それよりも、若くして投資に成功したり、ファンドを経営したり、あるいは起業するビジネスパーソンがカッコいい。もしくは顔がよくて筋肉ムキムキ、たとえ恐竜が来ても実力で排除できるイケメン―ほとんどギリシア時代の英雄のような―がカッコいい時代となったことを象徴している。「カネ」か「力」か、の二元論…まさに現代社会をそのまま投影する主人公像だといってもいいだろう。

 

話が長くなりすぎた。『ジュラシックワールド2 炎の王国』は、その島から逃げ出したあとの話だ。恐竜をモノだとしてしか見ていなかったヒロインのクレアが突如恐竜愛に目覚め、「恐竜を島から助けてあげなくちゃ…」というところから唐突に幕を開ける。
正直言って波乱すぎる幕開けだろう。監督は、公開前のインタビューなどで「アニマルライツなどのコンセプトも盛り込んだダークな作品」だと語っていたようだが、これはその領域を逸脱してぶっ飛びすぎていると感じざるを得なかった。しかし、実はその問題意識はかなり的を得ている。的を得ているとはつまり、現代社会の問題を鋭くえぐり出している。これはアニマルライツを題材にすることで、人間の感情が誤作動をひきおこすまさにその瞬間を描ききった作品になっているのだ。


この作品には3回ほど印象的なシーンがある。1回目は、島から逃げ遅れた草食恐竜が悲しそうに鳴くシーン。2回目は、ブルーというラプトルの恐竜が人間に対し共感能力を持ち、檻から出たあと悪者に襲い掛かるシーン。最後に、小さい子が我慢できなくなり、屋敷の恐竜をすべて外に脱走させるシーンである。


1回目のシーンにおいて、観客は哺乳動物ですらない、空想上の恐竜をじつに愛おしく感じる。それは人間ではないし、犬やネコでもない。その上、隕石の落下によって絶滅したと言われている恐竜が、同じように自然界の摂理である火山の噴火によって滅びていくのは単純に歴史の反復である。ぼくらは隕石絶滅のエピソードを1万回聞いても、おそらく恐竜には共感しなかったはずである。しかし、にもかかわらず、目の前に火山の噴火によって悲しそうに鳴く恐竜を見ると哀れみを感じ、かわいそうだなあ、乗せてあげたらよかったのに…と思ってしまうのだ。人間の共感ーかわいそうだと思う哀れみの感情は種を越え、哺乳動物であるかどうかの境界も越えて、空想上の生き物にまで働いてしまう。これは端的に、人間の感情が誤作動を起こしているといってよい。
そして、非常に重要なのが2回目と最後のシーン…恐竜が脱走するシーンである。恐竜が脱走するシーンはとてもカタルシスがあり、視聴者は見ていてスカッとするようになっている。抑圧されていた恐竜は檻から出たあと、どちらも悪役側の手下や悪の権化のやつを殺戮して出て行く。きっと脱走後もたくさんの無関係な人間を殺戮することは間違いないが、細かいことはとにかく置いといてすっきり。そういう作りだ。


ぼくはこのシーンに異様な違和感を覚えた。きっとぼくだけではないだろう。これはつまり、「人間だが立場の違う他者」よりも「人間から生物学的、時間的に果てしなく遠い他者 (恐竜) 」を愛する話なのである。


ぼくらは身近な家族を愛することができる。身近な友人たちを愛し共感することもできる。しかし、そこから先の他者を愛する想像力を持たない。脱走してしまった恐竜によってサーフィン中に食い殺されてしまう他者を、お金に困窮して仕方なく悪の組織ではたらくガードマンの仕事をする他者を愛することができないのだ。そのかわり、絶対共感しあうことができない、世界と時空を超越した空想上の動物を愛することはできる。

ぼくらがいま生きている時代とは、人が「自分とその近く」と「世界の終わり」しか考えることができないのであり、「自分」と「世界の終わり」をつなぐ中間の「世界」について想像力をもちえない時代なのである。(以前、同じ問題意識で音楽に関するブログを書いたので、こちらも参照いただきたい→https://ameblo.jp/hobo-usa/entry-12302235390.html

ぼくたちは自分の身近でまじめに生きている他者には共感することができず、しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。
ジュラシックワールド2 炎の王国』は、そういう時代にぼくらが生きているらしいということを見事に描ききったと言える。