ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

Re:ゼロからはじめる…話

Re:ゼロからはじめる…云々というアニメが劇場版OVAで公開されるということで、大変盛り上がっています。ぼくも途中までは見ているので、ストーリーは楽しみだし、なによりイキオイがあるというのは素晴らしいことだと思う。

突然だが、このアニメは要は異世界転生モノのファンタジーである。おまけに主人公はオトコで異世界美少女とのたくさんのふれあいがある。この時点で見る人をかなり限定してしまうのだが…しかし基本的な着想はいい。おおまかに言うと、この主人公は異世界において一度死ぬと、ある「セーブポイント」的な時間と場所に強制的に戻され、最初からストーリーをやり直すことになる。何度もやり直した結果、死なせたくない人が死なないとか、そういうハッピーな結末を迎えたことで、「セーブポイント」が更新される。そういうつくりになっている。

この発想のどこが面白いのかと言うと、それは「ループもの」という要素を取り入れたことである。

異世界転生は本当にフィクションである。何でもありのフィクションだから、死んだらループのような設定だっていままであってもよかったはずだ。しかし、実際には「なんでもあり=主人公最強 (俺TUEEE) 」と解釈した書き手たちによる、異常なほどの能力をもった主人公がひたすら雑魚をひねりつぶすように駆逐するような作品で溢れてしまった。この作品ではそのような陳腐な潮流にあえて抗い、主人公を貧弱なオトコに設定し、簡単に死んでしまうようにすることで、「ループもの」の想像力を取り入れることに成功できた稀有な例なのだ。

実は、今から10年以上前、アニメゲームの世界は「ループ」に溢れていた。2005年頃に登場した「ひぐらしのなく頃に」はそのようなループ世界の金字塔のような作品である。この作品では夏祭りの前後に起きた殺人事件を起点として、同じ一定時間を永遠に繰り返しているが、登場人物のひとりだけがそれに気づいている。主人公がこの世界に介入することで、「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」物語が構築されていくのである。
「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーは、実は涼宮ハルヒの…云々でもモチーフにされていたほどだ。2011年には「シュタインズゲート」でも同様のモチーフは反復され、大ヒットを飛ばした。しかしシュタゲの成功を機にほどなく「ループもの」は下火となり、あまりアニメにおいて描かれることはなくなる。ちなみに、つい最近知ったのだが、「らせんの宿」という人気のあるフリーのホラーゲームも、まさにこの「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーである。
このように2000年代中盤から後半はまさにループ天国ともいうべき、同じような想像力に満ちた時代が続いたわけだが、これらの作品には共通項がある。それはあくまでも「学園モノ」であったことだ。「ループもの」の想像力の源泉は「ときめきメモリアル」に代表されるようなギャルゲーに端を発している。ギャルゲーこそまさに同じループを永遠に繰り返し、選択肢を巧妙に操ることによって「正しい結末」を手繰り寄せるものだからである。そういったギャルゲーが学園モノであったがゆえに、後発のアニメまんがゲームにおける「ループもの」も、学園モノに偏っていた。

最初の話に戻ってぼくが感心したのは、「ループもの」の想像力をあえて学園から逸らし、一見何でもありの「異世界転生、剣と魔法」のファンタジー世界へとスライドさせ、その想像力とうまく結合させたことだ。こうすることで、実はすっかり業界内では地位の落ちていた「剣と魔法、ファンタジー」と「ループもの世界系」のどちらもまたその息を吹き返した。どちらにも思い入れがある者としては、喜ばしいことではないだろうか。

nhkの集金が来ました。

nhkの集金の方が我が家に来ました。と言っても、既にnhkは集金業務から撤退しており、残念ながら (?) 下請け会社の社員の方がお見えになりました。

 

基本的にぼくはテレビを持っていないので、受信料を払う法的義務は発生しない。今後はネットに繋がるパソコンを持ってるだけでも徴収される方向に法律が変わる可能性があるのだが、いまのところはテレビがなければ払わないということが認められる。

 

しかし、集金作業員の方はとにかく
「いやいや、払いたくないって気持ちはわかるんすけど…見てますよね?」
ワンセグ見れたりするものを持っていれば、払っていただかなくてはいけません」
「ここ、テレビは見てなくても、設置はあるんですから」
などと言って、お金を徴収しようとする。ちなみに、最後の「設置はある」と言って知識の乏しい人を騙し、契約を交わそうとするのは実に悪質だな…と感じたのだが、集金作業もラクな仕事ではないので黙って見過ごしてあげることにした。


そんなセコイことよりも、ぼくが今回、とても問題だなと思ったのは別のところにある。すなわちテレビに携わる人間たちが、ネット動画時代の訪れに全く適応できていないということである。


ネット動画とは、youtubeに始まりニコニコ動画などの動画配信プラットフォームを指す。こういったプラットフォームにある動画は生放送のものもあるが、基本はアーカイブ化された動画ファイルが中心だ。一部の特殊な会員制動画を除き、基本的には動画ごとに広告を採用しているので、視聴者は無料で動画を見ることができる。

ネット動画はきわめて優秀である。用事があれば途中で止めて出かけられるし、帰ってきたら録画などの面倒な手続きもなく途中から漏れなく見れる。それだけではない。つまらないなと思ったら早送りすれば冗長な部分をすっ飛ばせるし、聞き取れなかった部分や面白かった部分をワンクリックでふたたび再生することができるメディアなのだ。
こういう観点から見ると、テレビはクソメディアである。見たい内容の番組を選べず、現在進行形で放送しているコンテンツから視聴番組を選ぶことしかできない。早送りもできない。CMは長い。用事があったら録画するか、さもなければ一生見ることができない仕様だ。
ぼくは基本的に、こうした利便性から自宅にいる暇なときは延々とネット動画を見ている。同じような生活様式を営んでいる人はけっこうな数いるだろうし、これからも若い人を中心に増えていくのではないかと思っている。もはや、家に一台テレビがあり、暇なときにはテレビをつけて見る…という時代は終わりかけているということに気づかなくてはならない。


たとえばフジテレビは、80年代から「楽しくなければテレビじゃない!」を合言葉に、「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのキラーコンテンツを10年以上にわたり、立て続けにリリースしてきた。この動きは単にコンテンツの質が高かったということもあるが、基本的には日本人の経済事情が好転し、テレビが「高価でみんなで見るもの」から「一家に一台、個室で見るもの」へとシフトしたことに対応するものだ。つまり、テレビは面白い芸人さんを使ったワイワイガヤガヤなバラエティ番組を多数つくることによって、孤独な個人と直接つながるようになり、空前の高視聴率を獲得することが可能だったのだといえる。


しかし、程なくして、孤独な個人は携帯電話によって救済され始める。すぐにインターネットが普及し、状況は一変。「一人に一台、個室にパソコン」時代が到来する。インターネット元年から約20年、前述した「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのテレビ番組はすべて終了しており、伝説として語り継がれるだけの「歴史」に成り果てた。

もはや孤独な個人はテレビを見ない。ネット動画を垂れ流したり、ニコニコ生放送youtubeライブをみたりして余暇を過ごす生活が当たり前になった。結論的に、テレビは孤独な個人との関係を切断され、その役割をあっけなくネットに明け渡したのである。


さて、集金の人の話に戻ろう。nhkは、いいかげん「テレビはネットに役割を明け渡した」ことに向き合わなければならない。つまり、
「受信料払いたくないだけで、実際はテレビ見てますよね?」
が完全に間違った認識なのだ。なぜなら、もうぼくらはテレビを見ていないのだから。正しくは
「テレビは高コストをかけてネット動画よりも良質なコンテンツを制作していますので、どうか契約して買ってくださいお願いします」
である。この態度が営利企業として正しい作法であり、正確な認識であるということをわかっていただく必要があるだろう。

15歳天才高校生の崎山さんの音楽を聴きました

ゲス川谷さんやくるり岸田氏がネット上で「天才だ!」と賞賛してやまない、15歳の男子高校生崎山さん。ギターや歌声、作詞作曲の類まれな才能があると話題になっており、中学生時代の仲間とKIDS’Aなるバンドも組んでいる。噂によるとゲス川谷さんやくるり岸田氏は「プロデュースしたい」などと言っているとか。

 

彼のプレイや曲は実際youtubeにて無料で見れるので、個人の弾き語りとバンドでの演奏を見せてもらった。確かに、高校生にしては歌もギターもかなり上手ですごい、という意見は皆さんと一致している。高校生では通常まわりがコピーバンドにせっせと勤しむ中、自分で曲を書いてオリジナル曲をここまで歌いこなせるのは類まれなる才能である。

 

しかし、ぼくは彼が「天才」であると、特にマスメディアや人気のあるプロ的なミュージシャンがこぞって囃し立てるのには大反対だ。

なぜなら、彼の作る楽曲はまだ未完成だと言えるからだ。

 

こんなに若くてかっこよくて凄い高校生が出てきたのに、いきなり腰を折るとはどういうことか。妬み嫉みでついに気でも狂ったのか、と皆さんの声が聞こえてきそうだ。だがはっきり言おう。彼はプロが両手放しで絶賛する「類まれなる天才」なはずなのに、じゃあギターのコードワークや曲の「このどこかで聴いたことある感」は一体何なのだろう?もし彼の作曲レベルが天才であるなら、その曲はまったく聴いたことのないものに感じるはずである。
しかし実際のところこういったギターの弾き方、コードの捉え方は2010年以降発展したひとつのスタイルであり、基本的には例えば某レコード系のアルバムを数枚買えば聴くことができるものだ。
彼の楽曲について、さらにもう少しつめて言うと、コードワークに未熟さがある。テンションノートを多く使う割にはダイアトニックのループ進行がほとんどであり、これは端的に言うと、音楽理論を体系的に駆使することができていない某レコード系アーティストの課題を未解決のまま残している。
つまり、その課題は「そういうジャンルだから、仕方ない」とも言え、彼のせいではなく、そのジャンルを構築した先人たちのせいなのである。逆に考えてみると、彼は「ひとつのジャンルの域を出ていない」ということに他ならない。

最終的にぼくが見たところ、天才というよりは「要領よく技能を修得できる、模倣の達人」というのが最も正確な表現なのではないか。

 

さて、ここでぼくの懸念を表明しておきたい。おそらく―というか間違いなく―ここで全マスメディアやアーティスト気取りのモノたちがこぞって「天才だ!」と言って囃し立てたとしたら、彼はその成長をやめてしまうだろう。課題を残したままプロミュージシャンとしてデビューし、お金を稼ぐということは、「なんだ、これでいいのか」と思うに違いないからである。もしかしたら彼は状況に流されず、研鑽と成長を続けられる稀有な存在かもしれない。しかし、バンドKIDS’Aはどうだろうか?バンドの成長は絶対に止まる。これは断言できる。そもそも、バンドとはそういうものだからだ。


ゲス川谷さんやくるり岸田氏は、こうなることを考えて発言できているのだろうか?まがりなりにもプロのミュージシャンなのだから、崎山さんの曲が「既存技術の流用」であることを知らなかったはずはない。にもかかわらず、彼をわざわざネットを使って賞賛するのは、彼を「投機対象」として見ているからに他ならない。あまつさえ「プロデュースしたい」などと発言することは、15歳男子をダシにしてまさに「投機的投資」をしようとしているゲスいやつらだと言わざるをえないではないか。


最近、友人のライブを見に行ってつくづく感じたのは、ミュージシャンにとって重要なのは「挫折の経験」である。残念ながら、ぼくたちは挫折をすることでしか、その演奏、その楽曲に「深み」を与えることができない。いまの時代は挫折を知らずに、最短距離でデビューし、ゴールへたどり着くことが最もよいとされてしまっている。だが、ことバンドに関しては全くそれが当てはまらない。バンドの音楽に説得力を与えてくれるのは、唯一その「深み」だけであり、最短距離でゴールしてしまうことは、音楽から深みを失うことと同義である。
そう感じさせてくれた素晴らしいライブだった。

決意表明みたいなもの

ぼくは基本的に、音楽とは「何かについての表現」であるとずっと思ってきたし、その気持ちはこれからも変わらないだろう。それは美術作品や絵画と同じように、論理的な言葉だけでは伝えることができない何かを、端的に表現するものである。

 

しかし、2000年代以降において日本の音楽が辿ってきた道は、音楽が「何かについての表現」であることを徹底的に否定し、無意味なものにしていく過程だったと言わざるを得ない。音楽は、むしろ「何かのためのもの」となった。

それは疲れた自分を癒してくれるヒーリングものや、つらい現実を忘れさせてくれる「陶酔ー現実忘却系」、そして元気がないときに力をくれる「スタミナソング」に代表されるだろう。ここに挙げたように、何かの役に立たなくてはそれは音楽としての意味がないとされ、単純な「表現」は資本の論理によってはじかれてしまった。

 

もうひとつ、傾きかけた日本社会が抱える「エセ資本の論理」が、音楽界をいよいよ終わらせてしまったことがある。それは、ミュージシャンたちが、【音楽で成功すること=「まわりを出し抜く強い個人」が、手段を選ばずひとり勝ちすること】という愚かな幻想に囚われてしまったことだ。「勝つ」とは何に勝つのか?それは、承認(売れる、集客できる)を巡って展開される終わりなき欲望のゲームに、である。そのゲームは本来であれば、ゲームの勝者こそが強いという「強者弱者」を決めるゲームのはずだった。しかしエセ資本の論理によって、「強者の音楽こそ芸術的にすぐれた作品である」という「ラベルの貼りかえ」が起こってしまった。

 

基本的に、いわゆるメジャーシーンに近いアーティストになるにつれて、この傾向は緩和されるどころかむしろ強まっていくことが、いろいろな人との付き合いで実感されてしまった。人気のあるバンドほど「周囲を出し抜こうと」しているし、音楽は「何かについての表現」ではなく、陳腐化された具体的な目的をもった消費財、と考えている。余裕があるのだから、その逆になればいいのに…といつも思うのだが、そういうわけにはいかない。これは「終わりなき欲望のゲーム」だから、エスカレートし続けるしかない運命にあるのである。今日本で、音楽を表現できて周囲と喜びを分かち合うことができているのは、いわゆる「ビッグネーム」に限られている。

 

ぼくは意識的に、ここ数年、そういった「出し抜き厨」「承認ゲーム厨」とは距離を置いてきたし、やはり音楽は「何かについての表現」だと思って信じてやっている。あらためてこうして文章にするのは、一種の決意表明みたいなもので特に意味はないのだが、少なくともぼくは大切な仲間たちとともに、音楽をする喜びを分かち合っていきたいし、分かち合い派に属しているという自分の立場をちゃんとはっきりしておくためである。