ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著, 講談社現代新書) を読みました-1

タイトルに連番をつけたのは、なんとなく内容が長くなってしまうと思われたためである。だから、どのくらいボリュームを書くのかは全く決めていないし、すぐに書き終わってしまうかもしれない。つまり特に意味はないので気にしないで欲しい。


本書は2016年に出版された書籍であるが、素晴らしい本だ。プロを目指している人、かつて目指していた人、そして目指してはいないがアマチュアで音楽をやっている人のすべてが読むべき必読の書である。その理由は、アマゾンレビュアーのixdxmさんが書いているとおり、『「音楽の今」を把握するための見取り図』としてよくまとまっていて、わかりやすいこと。そして、90年代の音楽バブルを生で体験してきた世代にとっては、音楽が不況になるありさまを捉えた取材の数々が、おおむねぼくらの体感と一致している点が素晴らしい。

本書はかなり売れているし、レビューはアマゾンだけに限らず山ほど出ているはずだ。だからぼくがいまさら内容をおさらいするようなレビューを書いても仕方ないし、そういうのはアマゾンとか別のサイトに投稿して「いいね!」とか「役に立った!」をもらってウハウハすべき事案である。だからぼくはレビューになるような内容は書かない。ウハウハすることもしない。もっと違った角度から、今の問題点を論じようと思う。

 

ぼくがここから最初に論じようと思うのは、ライブ、フェスの動員についてである。


まず、この本をざっくりと要約してしまうとこういうことになる。
「CDは売れなくなった。だけど売れ方が変わっただけ。ライブの動員は増えているし、フェスが盛り上がっている。海外で主流のストリーミングサービスがいよいよ入ってくるし、ヒットは違った形で生まれ変わりつつあって、今の音楽界はすごくおもしろい。これから楽しみ。以上。」


たしかに、ライブの動員が爆発的に伸びていることと、大型ロックフェスがそれなりに乱立して毎年のようににぎわっていることはぼくも知っている。それは動員記録ガーとか、入場規制ガーとか、そういうあらゆるデータが揃っているから反論のしようがない端的な事実である。消費者は手元に残るCDよりも、一回限りの「きっとプライスレス」な体験にこそお金を払おうとしている…こんな調子で「美談」として語られることも多いのは皆さんも感じておられることだと思う。


実は「思い出に残る経験こそが、もっとも希少価値のあるものである」という「ライブ重視戦略」は、すでに10年以上前から、アメリカで始まっている。どうしてアメリカでこのような潮流が生まれたのか…それは、アメリカ人が音楽が大好きで、アメリカが常に音楽シーンの先端をいっているから、ではない。アメリカこそまさに資本主義が徹底した国であり、ライブこそは音楽ビジネスにおいてもっとも儲かる部分であることが見出されたに過ぎないから、である。その儲かる部分を最大化するためにこそ、あえてCDを「無料音楽」というツールに置き換え、ライブの動員を増やす最適化戦略を採用したのだ。


ぼくが記憶しているかぎり、この潮流にいちはやく気づき、戦略的に採用したのがプリンスとレディオヘッドである。2007年、プリンスはアルバム『プラネットアース』を無料で配布し、ロンドンで21のコンサートを行う作戦に出た。チケットは完売し、過去最大のライブ動員を達成した。レディオヘッドは『イン・レインボウズ』のダウンロード価格を消費者につけさせるという常識破りの発想に出た。その後、行われたツアーではプリンス同様、過去最大のチケット売り上げ枚数を記録している。負けず嫌いのマイケルジャクソンが「This is it!」と銘打って、同じように数日にわたるコンサートを開催しようとしたが、無理が祟って亡くなってしまった。本当に痛ましい事件であった。

 

つまり、ぼくたちは気づくべきなのである。あたかもメディアが「消費者が自主的に体験型のライブを求め、思い出を得るために高いお金を喜んで払っている」かのように報道しているが、それは明らかに自主的でなく、むしろ扇動された結果なのだ、ということに。


その証拠に、各地に点在するライブハウスに動員が増えたという話など聞いたことがない。どこのライブハウスもいまや、瀕死の有様だ。ライブハウスはノルマという形でバンドに集客を押し付け、夢を叶えたいバンドたちの良心を搾取することによって、かろうじてその経営を維持している。ぼくらのバンドでも、特に顔も名前も存じ上げない音楽ファンがフラッと聴きに来てくれた、などというありがたい話はほとんどない。そんなことがあるとすれば夢のような、ありえない話だ。
しかし、仮にもし一般消費者が思い出に残る経験を求めてライブを重視しているのだとしたら、夢のようなありえない話は現実に起こっていてもおかしくない。ライブハウスには体験を求めたお客さんが毎週末訪れ、賑わい、バンドも脚光を浴びる。少なくとも、こんな寂れた現状にも光が射すようなことがあるはずだ。しかし現実には小さなライブハウスは経営に行き詰まり、バンドも活動休止を余儀なくされている。その一方で、フジロックサマーソニックといった大型フェスや、ミスチルラッドウィンプスラルクアンシェルといった「ビッグネーム」からは、毎年のように動員数を過去最大に更新した、入場規制を行った、等のとにかく景気のいい話が山のように聞こえてくる。
つまり、ぼくらは自主的に体験を求めてなどいない。莫大な資本を背景に、もっとも儲かる部分へと効率的に動員され、搾取されるよう扇動されているに過ぎないのだ。

 

「そんなことはない!おまえらのバンドがショボいだけで、現実にはライブで売れてるアーティストもたくさんいる。ミクロにはおまえらカスみたいなバンドしかいなくても、マクロには素晴らしいバンドがたくさんいて、フェスの動員もこれからずっと伸びていくに決まっている!」という人がいるかもしれない。いや、きっとたくさんいると思う。そんな人たちに向けて、衝撃的な記事を一本紹介しよう。


https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29216/2/1/1


↓↓↓引用ここから↓↓↓
2019年に巨大なフェスティバルを開始するというのは、天才的なアイデアか狂気の沙汰のどちらかだろう。毎年3200万人がフェスティバルに参加する一方で、ボナルーやSasquatch!などのフェスティバルでは近年観客が激減している(Sasquatch!は2019年の開催中止を発表した)。フェスティバルへの関心低下の原因についてメディアは辛辣な見方をしており、2017年には少なくとも3媒体で「音楽フェスティバルが多すぎないか?」というタイトルの記事が掲載されている。
(中略)フェスティバルが雨後の竹の子のように増えるに従って、出演者のラインナップが似通っている点を指摘する声も多く上がるようになっている(音楽メディアのピッチフォークは、ロラパルーザ、コーチェラ、ボナルーの3つのフェスティバル全部に出演したバンドの割合は、2005年が15%だったが、2017年では32%と倍以上になっていることを暴露している)。フェスティバルをハシゴするのが好きなファンにとって、フェスティバルごとの出演者と演奏曲の違いを見つけるのが困難になっているのだ。エミネムガンズ・アンド・ローゼズなどの人気アーティストたちは、フェスティバルでのヘッドライナー出演を一度限りの特別ライブとしてツアー日程の一部と捉えている向きもある。
音楽フェスティバルが劇的に増加した一因はストリーミング・サービスにある。つまり、ストリーミングによって実用的な音楽へのアクセス方法が豊富になり、音楽ファンがこれまで以上に個人的な音楽体験を求める方向へと向かったからといえる。しかし、いたるところでフェスティバルが開催される現在、熱く大騒ぎできるはずのフェスティバルが熱気のない型通りのものになりつつある。
↑↑↑引用ここまで↑↑↑

 

つまり2018年現在、アメリカやイギリス、ヨーロッパでは、すでに「フェス疲れ」という単語が一般化しており、ライブの動員が伸び悩むばかりか激減している。要するに、「かけがえのないプライスレスな体験」をライブに求めること自体がフィクションだったことに、みな気づき始めたのである。


アメリカの音楽業界がライブ重視戦略を完全に採用したのが2007年。そこから3年ほど遅れて、日本もライブの動員が伸びてきた。だから、いまから約3年くらいして、日本のオーディエンスはおそらく「フェスに疲れ」はじめるだろう。

 

CDも売れない、ヒットするアーティストも育てられない。かろうじてフェスやライブの動員は良かったが、そうして頼みの綱の動員が「フェス疲れ」してしまったら、日本の音楽業界に一体何が残るのだろうか?
ぼくはいまの「音楽界はいま楽しいし、これからも楽しみ」という楽観的なムードがとても嫌いだし、危惧を覚えずにはいられない。

ワンマンライブを終えて

ライブにお越しくださった素晴らしい皆様には既におわかりだと思うが、ぼくらはワンマンライブというより、コンサートを開催した。それも名実ともに、である。結果は盛況だった…と信じたいところだが、ツイッターフェイスブックなどでぼくの悪口が書かれていないところを見る限り、一定の水準はクリアしていたようだ。
実際に来られなかった方々に言葉だけで伝えるのはとても難しいのだが、ぼくらの体現した「ワンマンライブ」は、その実のところ「ワンマン!」や「ライブ!」といったパワーワードのもつマッチョなイメージからは相当かけ離れたものだった。見に来られた方は最初、その雰囲気のギャップに戸惑ったであろうと思うが、最終的には納得していただけたとぼくは感じている。

 

ぼくは高校生のときにオリジナルへヴィメタルのバンドをはじめてから、既に20年近く、バンド活動を続けている。だから20歳くらいのとき同じバンドのメンバーだったやつが解散後、軌道に乗った別のバンドでワンマンライブをする、といったものは何回も見に行ったし、特に深い関わりのなかった人でも「集客がないと困るんです、助けてください…」といった具合で誘われた場合はもちろん見に行ったりもした。しかし彼らに対していつもぼくが痛切に感じたのは、いわゆるバカ売れした「ビッグネーム」のバンドのライブを、どこかミニチュアで再現しようとしているな、ということである。
実は、ぼくはそれでもかまわないと思っている。消費者は基本的に、同じものしか求めない。どこかで見たことある演出、完全なコピーじゃないけども聞き覚えのある曲調、歌、フレーズ…そういうものに敏感に反応して、肯定的な評価を下すのが消費者だ。消費者は保守的である。だからミスチルの、東京事変の、チャットモンチーの、そしてバンプオブチキンの反復しか求めない。現に2年前、あのラッドウィンプスが「君の名は」でバカ売れしたことにそれは表れている。「新しい音楽の形を求める先鋭的な消費者」がそこにいたのではない。そこにいたのは、ただ単に同じ味の反復を求めた保守的な消費者像があったに過ぎないのだ。
だから、成功を目指すバンドマンが自分のワンマンライブで、バカ売れしたアーティストの反復を試みるのはまったく正しいことだと思う。消費者は同じものが反復して生産され、提供されることを望んでいるし、それによってバンドは「売れる」。「売れる」とは経済的な規模の拡大を意味し、多くの人が潤い、雇用がうまれ、人々が幸せになることを意味する。

 

しかし、残念ながら音楽が売れ続けることは絶対にない。それは音楽に限ることではないが、歴史が証明している。だから永遠に拡大し続けるだろうと思われたぼくらのしあわせは、どこかで必ず限界にぶち当たるだろう。そうして限界にぶち当たったとき、同じことの反復は解決策を与えてはくれない。無限の反復は、永遠とも思える後退戦をジリジリと凌いでいくだけの地獄へと変貌するように感じるはずだ。
ぼくは、じつはアーティストこそがその無限の反復から抜け出し、新しい世界を提示するべき存在なのだと信じている。ぼくらはワンマンライブじゃなくてコンサートを行ったし、ふつうライブじゃやらないようなことを強引に採り入れたりした。そこには、人々がかつて見たことがあるものと同じようなものや、かつて聴いたことのあるものと似たものは存在しなかったと思う。だから、ぼくらのやっていることは相変わらず一般の消費者に広く受け入れられることはない。けれども、今の音楽界は誰が見ても明らかなほど衰退し、限界にぶち当たっている。今ぼくらがやるべきは同じものの反復ではなく、新しい世界や価値観を生み出すこと―これこそがアーティストとしての最低限のモラルだと思って、コンサートをやりきったのだった。

 

アーティストとリスナーの垣根がなくなった時代だ、とよく言われる。世の中はリスナーが作詞作曲し、リスナーが演奏した動画に溢れている。しかしそうしたものは、多くの場合反復でしかない。垣根がなくなった時代だからこそ、アーティストがアーティストたるゆえんが問われているのだと思い、これからも頑張っていきたいし、ぼくらの後に続く若者たちには是非とも頑張って欲しいと思っている。

 

あ、先日お越しくださいました皆様、本当にありがとうございました。心から感謝を申し上げます!

固有名の更新されなさ

安室奈美恵が引退するにもかかわらず、それをきっかけとしたDVDやBDの類が売れに売れている。音楽関係がすっかり売れなくなったこのご時勢にミリオンセラーを記録しているというのだから、勝ち逃げイチぬけパターンの最高の形であるといっても過言ではない。


しかし同時にぼくが違和感を覚えたのは、安室奈美恵という固有名である。安室奈美恵はぼくが小学生のとき、すでにスーパーモンキーズとしてデビューしていた。その後、小室プロデュース時代を経て、結婚出産を機に落ち目の小室から脱出する。「エイベックス―マイルドヤンキー」的セールスがうまくはまり、単なるポップシンガーから不動のカリスマ歌姫へと価値観の変更を行うことができ、現在に至る。実に20年以上、あまりにも昔に世に出た固有名が現在も生きつづけているのである。

 

ぼくが記憶している限り、80年代後半から90年代前半までの固有名は更新されつづけるのが当たり前だった。たとえばボウイは1988年に解散していたが、翌年89年にはX JAPANがデビューし、ボウイは新しい音楽ではなくなっていた。
そうかと思えばオリコンチャートはミスチルスピッツを1位に押し上げていく。加えて、あんなゴリゴリした音楽は一般の人には合わないのだといわんばかりに、耳障りの軽い小室ミュージックが全盛期を迎える。へヴィメタなる単語は既に死語と化し、誰も思い出さなくなっていた。
ほどなくすると、軽くなりすぎた音楽へのバンドサウンドの揺り戻しとして、GLAYラルクアンシェル、ジュディアンドマリがあらわれる。後にも先にも、「バンド」という形態がここまで注目された時代はほかになかったであろう。既にtrf的なダンスポップスはダサくなりつつあった。
残念ながら、栄光はあっという間に過ぎ去るもの。宇多田ヒカルがデビューし、倉木麻衣MISIA小柳ゆきが登場すると、バンドというスタイルそのものが色あせはじめ、もはや古くなりつつあった。…

 

いま挙げたアーティストの変遷は、それぞれだいたい2年くらいのスパンで書いてある。つまり80年代後半から90年代は、その固有名が2年くらいの期間で更新されていくのが普通のことだったのだ。しかし2000年から2010年代になると、むしろ固有名は更新されなくなってくる。
ぼくはほとんど記憶がないけど、例えばおニャン子クラブは1985-1987年の2年ちょっとしか活動していない。しかしAKBはいま10年以上も活動していることになる。90年代が青春ど真ん中だったぼくらは、固有名の2年スパンでの更新があまりにも当然のことだと思ってしまっていたし、固有名が更新されないのは「わしも歳をとったからなあ…」というような、加齢による主観的な理由かと思っていたが、おにゃん子とAKBの比較からも明らかなように、どうやらその感覚は間違っているらしい。あくまでも客観的事実として、同じアーティストだけが長い間反復して支持されていることが明らかになってくる。

 

これは一体なにを表しているのだろう?90年代は一貫して、消費者の動向が新しい価値観こそが最先端でオシャレであるという明確な意識に基づいていたことがわかるだろう。GLAYのファンだった同級生のミーハー男子が、2年もしないうちにシャズナのメルティラブにハマっていたことに代表されるように、2年も前の音楽やアーティスト、バンドはもう古くてダサかった。ところが、2000年以降、消費者は急激に保守化し、アーティストに安定、落ち着き、癒し、変わらなさを求めるようになったのだ。ミスチルやサザンなどのビッグネームが異様ともいえる底堅いファン需要によって、ものすごい勢いでエスタブリッシュメントになるのもこの頃である。

 

そもそも、消費者の欲望とはそういうものかもしれない。同じものの反復、変わらなさこそが堅い需要を生みだし、産業を支えていく。本来、新しい音楽的価値観などは不要なものなのだ。


安室奈美恵という固有名がいまも更新されず売れているのも、基本的には消費者の保守的な欲望をダイレクトに表しているだろう。安室奈美恵は現在40歳だが、40歳でもその美貌と美しいスタイルを維持していることが人気の一番の秘訣なのだという。つまり、安室奈美恵はアーティストとしての新規性、カリスマなどがきっかけとして売れているわけではない。安心、安定を求める消費者に、その「変わらなさ」こそが評価されていたのだと言える。

ジュラシックワールド2 炎の王国をみました

ジュラシックワールド』とは、20年以上も前の作品『ジュラシックパーク』から派生する、あらたな恐竜アクション―パニック映画である。『ジュラシックパーク』については、もはや説明は不要だろう。いや、若い読者はひょっとしたら逆に知らないかもしれない。しかし、そもそも若い人はこんなところに来ないか。スティーブン・スピルバーグ監督が、当時最先端だったCG技術を駆使して、恐竜を現代に蘇らせたという伝説的なハリウッド映画である。ストーリー自体も、遺伝子工学を用いた生物学の技術によって現代に蘇った恐竜が脱走、繁殖などして襲い掛かってくる。そこから主人公たちが逃げ惑うアクション―パニックものになっており、複雑なメッセージよりもむしろ、画面の中でリアルな恐竜が動くそのさまを見ることが目的だったといっても過言でなかった。


ジュラシックワールド』の1作目は3年前に公開されているが、作品の内容、メッセージ性はほとんど『ジュラシックパーク』と同じである。科学者や管理する人間たちの驕りから、恐竜が檻から脱走し、パークをパニックに陥れる。『パーク』との違いは、主人公が理科系研究者-学者同士のカップルではなくなり、若い美人経営者と海兵隊出身のバンカラ野郎のコンビになったところである。このあたりも時代性をはっきり表しているのだが、当時は大学の学者、研究者であることがステータスでありえた。20年前、大学の研究は夢があり、研究はかっこよかった。なにより、研究成果はぼくらの社会を豊かにするものに直結すると信じて疑われなかった時代である。「末は学者か先生か…」これは頭がいい子に対して親や親戚が言った言葉である。だが今はそんな幻想ははっきり失われている。学者は有期雇用で給料も低い。いつまでも研究生活などしていられないから、好きなことをあきらめて就職しなさいと周りから諌められる日々。先生はモンスターペアレンツのクレームに追われ、ブラック企業並みのサービス残業をする日々だ。それよりも、若くして投資に成功したり、ファンドを経営したり、あるいは起業するビジネスパーソンがカッコいい。もしくは顔がよくて筋肉ムキムキ、たとえ恐竜が来ても実力で排除できるイケメン―ほとんどギリシア時代の英雄のような―がカッコいい時代となったことを象徴している。「カネ」か「力」か、の二元論…まさに現代社会をそのまま投影する主人公像だといってもいいだろう。

 

話が長くなりすぎた。『ジュラシックワールド2 炎の王国』は、その島から逃げ出したあとの話だ。恐竜をモノだとしてしか見ていなかったヒロインのクレアが突如恐竜愛に目覚め、「恐竜を島から助けてあげなくちゃ…」というところから唐突に幕を開ける。
正直言って波乱すぎる幕開けだろう。監督は、公開前のインタビューなどで「アニマルライツなどのコンセプトも盛り込んだダークな作品」だと語っていたようだが、これはその領域を逸脱してぶっ飛びすぎていると感じざるを得なかった。しかし、実はその問題意識はかなり的を得ている。的を得ているとはつまり、現代社会の問題を鋭くえぐり出している。これはアニマルライツを題材にすることで、人間の感情が誤作動をひきおこすまさにその瞬間を描ききった作品になっているのだ。


この作品には3回ほど印象的なシーンがある。1回目は、島から逃げ遅れた草食恐竜が悲しそうに鳴くシーン。2回目は、ブルーというラプトルの恐竜が人間に対し共感能力を持ち、檻から出たあと悪者に襲い掛かるシーン。最後に、小さい子が我慢できなくなり、屋敷の恐竜をすべて外に脱走させるシーンである。


1回目のシーンにおいて、観客は哺乳動物ですらない、空想上の恐竜をじつに愛おしく感じる。それは人間ではないし、犬やネコでもない。その上、隕石の落下によって絶滅したと言われている恐竜が、同じように自然界の摂理である火山の噴火によって滅びていくのは単純に歴史の反復である。ぼくらは隕石絶滅のエピソードを1万回聞いても、おそらく恐竜には共感しなかったはずである。しかし、にもかかわらず、目の前に火山の噴火によって悲しそうに鳴く恐竜を見ると哀れみを感じ、かわいそうだなあ、乗せてあげたらよかったのに…と思ってしまうのだ。人間の共感ーかわいそうだと思う哀れみの感情は種を越え、哺乳動物であるかどうかの境界も越えて、空想上の生き物にまで働いてしまう。これは端的に、人間の感情が誤作動を起こしているといってよい。
そして、非常に重要なのが2回目と最後のシーン…恐竜が脱走するシーンである。恐竜が脱走するシーンはとてもカタルシスがあり、視聴者は見ていてスカッとするようになっている。抑圧されていた恐竜は檻から出たあと、どちらも悪役側の手下や悪の権化のやつを殺戮して出て行く。きっと脱走後もたくさんの無関係な人間を殺戮することは間違いないが、細かいことはとにかく置いといてすっきり。そういう作りだ。


ぼくはこのシーンに異様な違和感を覚えた。きっとぼくだけではないだろう。これはつまり、「人間だが立場の違う他者」よりも「人間から生物学的、時間的に果てしなく遠い他者 (恐竜) 」を愛する話なのである。


ぼくらは身近な家族を愛することができる。身近な友人たちを愛し共感することもできる。しかし、そこから先の他者を愛する想像力を持たない。脱走してしまった恐竜によってサーフィン中に食い殺されてしまう他者を、お金に困窮して仕方なく悪の組織ではたらくガードマンの仕事をする他者を愛することができないのだ。そのかわり、絶対共感しあうことができない、世界と時空を超越した空想上の動物を愛することはできる。

ぼくらがいま生きている時代とは、人が「自分とその近く」と「世界の終わり」しか考えることができないのであり、「自分」と「世界の終わり」をつなぐ中間の「世界」について想像力をもちえない時代なのである。(以前、同じ問題意識で音楽に関するブログを書いたので、こちらも参照いただきたい→https://ameblo.jp/hobo-usa/entry-12302235390.html

ぼくたちは自分の身近でまじめに生きている他者には共感することができず、しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。
ジュラシックワールド2 炎の王国』は、そういう時代にぼくらが生きているらしいということを見事に描ききったと言える。

Re:ゼロからはじめる…話

Re:ゼロからはじめる…云々というアニメが劇場版OVAで公開されるということで、大変盛り上がっています。ぼくも途中までは見ているので、ストーリーは楽しみだし、なによりイキオイがあるというのは素晴らしいことだと思う。

突然だが、このアニメは要は異世界転生モノのファンタジーである。おまけに主人公はオトコで異世界美少女とのたくさんのふれあいがある。この時点で見る人をかなり限定してしまうのだが…しかし基本的な着想はいい。おおまかに言うと、この主人公は異世界において一度死ぬと、ある「セーブポイント」的な時間と場所に強制的に戻され、最初からストーリーをやり直すことになる。何度もやり直した結果、死なせたくない人が死なないとか、そういうハッピーな結末を迎えたことで、「セーブポイント」が更新される。そういうつくりになっている。

この発想のどこが面白いのかと言うと、それは「ループもの」という要素を取り入れたことである。

異世界転生は本当にフィクションである。何でもありのフィクションだから、死んだらループのような設定だっていままであってもよかったはずだ。しかし、実際には「なんでもあり=主人公最強 (俺TUEEE) 」と解釈した書き手たちによる、異常なほどの能力をもった主人公がひたすら雑魚をひねりつぶすように駆逐するような作品で溢れてしまった。この作品ではそのような陳腐な潮流にあえて抗い、主人公を貧弱なオトコに設定し、簡単に死んでしまうようにすることで、「ループもの」の想像力を取り入れることに成功できた稀有な例なのだ。

実は、今から10年以上前、アニメゲームの世界は「ループ」に溢れていた。2005年頃に登場した「ひぐらしのなく頃に」はそのようなループ世界の金字塔のような作品である。この作品では夏祭りの前後に起きた殺人事件を起点として、同じ一定時間を永遠に繰り返しているが、登場人物のひとりだけがそれに気づいている。主人公がこの世界に介入することで、「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」物語が構築されていくのである。
「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーは、実は涼宮ハルヒの…云々でもモチーフにされていたほどだ。2011年には「シュタインズゲート」でも同様のモチーフは反復され、大ヒットを飛ばした。しかしシュタゲの成功を機にほどなく「ループもの」は下火となり、あまりアニメにおいて描かれることはなくなる。ちなみに、つい最近知ったのだが、「らせんの宿」という人気のあるフリーのホラーゲームも、まさにこの「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーである。
このように2000年代中盤から後半はまさにループ天国ともいうべき、同じような想像力に満ちた時代が続いたわけだが、これらの作品には共通項がある。それはあくまでも「学園モノ」であったことだ。「ループもの」の想像力の源泉は「ときめきメモリアル」に代表されるようなギャルゲーに端を発している。ギャルゲーこそまさに同じループを永遠に繰り返し、選択肢を巧妙に操ることによって「正しい結末」を手繰り寄せるものだからである。そういったギャルゲーが学園モノであったがゆえに、後発のアニメまんがゲームにおける「ループもの」も、学園モノに偏っていた。

最初の話に戻ってぼくが感心したのは、「ループもの」の想像力をあえて学園から逸らし、一見何でもありの「異世界転生、剣と魔法」のファンタジー世界へとスライドさせ、その想像力とうまく結合させたことだ。こうすることで、実はすっかり業界内では地位の落ちていた「剣と魔法、ファンタジー」と「ループもの世界系」のどちらもまたその息を吹き返した。どちらにも思い入れがある者としては、喜ばしいことではないだろうか。

nhkの集金が来ました。

nhkの集金の方が我が家に来ました。と言っても、既にnhkは集金業務から撤退しており、残念ながら (?) 下請け会社の社員の方がお見えになりました。

 

基本的にぼくはテレビを持っていないので、受信料を払う法的義務は発生しない。今後はネットに繋がるパソコンを持ってるだけでも徴収される方向に法律が変わる可能性があるのだが、いまのところはテレビがなければ払わないということが認められる。

 

しかし、集金作業員の方はとにかく
「いやいや、払いたくないって気持ちはわかるんすけど…見てますよね?」
ワンセグ見れたりするものを持っていれば、払っていただかなくてはいけません」
「ここ、テレビは見てなくても、設置はあるんですから」
などと言って、お金を徴収しようとする。ちなみに、最後の「設置はある」と言って知識の乏しい人を騙し、契約を交わそうとするのは実に悪質だな…と感じたのだが、集金作業もラクな仕事ではないので黙って見過ごしてあげることにした。


そんなセコイことよりも、ぼくが今回、とても問題だなと思ったのは別のところにある。すなわちテレビに携わる人間たちが、ネット動画時代の訪れに全く適応できていないということである。


ネット動画とは、youtubeに始まりニコニコ動画などの動画配信プラットフォームを指す。こういったプラットフォームにある動画は生放送のものもあるが、基本はアーカイブ化された動画ファイルが中心だ。一部の特殊な会員制動画を除き、基本的には動画ごとに広告を採用しているので、視聴者は無料で動画を見ることができる。

ネット動画はきわめて優秀である。用事があれば途中で止めて出かけられるし、帰ってきたら録画などの面倒な手続きもなく途中から漏れなく見れる。それだけではない。つまらないなと思ったら早送りすれば冗長な部分をすっ飛ばせるし、聞き取れなかった部分や面白かった部分をワンクリックでふたたび再生することができるメディアなのだ。
こういう観点から見ると、テレビはクソメディアである。見たい内容の番組を選べず、現在進行形で放送しているコンテンツから視聴番組を選ぶことしかできない。早送りもできない。CMは長い。用事があったら録画するか、さもなければ一生見ることができない仕様だ。
ぼくは基本的に、こうした利便性から自宅にいる暇なときは延々とネット動画を見ている。同じような生活様式を営んでいる人はけっこうな数いるだろうし、これからも若い人を中心に増えていくのではないかと思っている。もはや、家に一台テレビがあり、暇なときにはテレビをつけて見る…という時代は終わりかけているということに気づかなくてはならない。


たとえばフジテレビは、80年代から「楽しくなければテレビじゃない!」を合言葉に、「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのキラーコンテンツを10年以上にわたり、立て続けにリリースしてきた。この動きは単にコンテンツの質が高かったということもあるが、基本的には日本人の経済事情が好転し、テレビが「高価でみんなで見るもの」から「一家に一台、個室で見るもの」へとシフトしたことに対応するものだ。つまり、テレビは面白い芸人さんを使ったワイワイガヤガヤなバラエティ番組を多数つくることによって、孤独な個人と直接つながるようになり、空前の高視聴率を獲得することが可能だったのだといえる。


しかし、程なくして、孤独な個人は携帯電話によって救済され始める。すぐにインターネットが普及し、状況は一変。「一人に一台、個室にパソコン」時代が到来する。インターネット元年から約20年、前述した「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのテレビ番組はすべて終了しており、伝説として語り継がれるだけの「歴史」に成り果てた。

もはや孤独な個人はテレビを見ない。ネット動画を垂れ流したり、ニコニコ生放送youtubeライブをみたりして余暇を過ごす生活が当たり前になった。結論的に、テレビは孤独な個人との関係を切断され、その役割をあっけなくネットに明け渡したのである。


さて、集金の人の話に戻ろう。nhkは、いいかげん「テレビはネットに役割を明け渡した」ことに向き合わなければならない。つまり、
「受信料払いたくないだけで、実際はテレビ見てますよね?」
が完全に間違った認識なのだ。なぜなら、もうぼくらはテレビを見ていないのだから。正しくは
「テレビは高コストをかけてネット動画よりも良質なコンテンツを制作していますので、どうか契約して買ってくださいお願いします」
である。この態度が営利企業として正しい作法であり、正確な認識であるということをわかっていただく必要があるだろう。