ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

4月の君は…

久しぶりにアニメの一気見というのを敢行して、『四月の君は嘘』というやつを見終わった。結構、内容のあるストーリーで考えさせられた。いいアニメだったと思う。あまりこの作品を悪く評価する人がいないし、むしろ世間的には大絶賛なのだが、それはあくまでストーリーが感動したとか、ラストの終わり方がよかったとか、泣けたとか涙腺崩壊とか、そういう文脈で語られている。
ぼくは実際、感動とか泣けたとか、そういう方向ではあまり関心しなかった。まったく、と言ってもいい。なぜなら、それはもう見事なまでの「死にオチ」だったからだ。それもダブルの死にオチ。
ここでぼくが「死にオチ」と呼んでいるのは、人が死ぬことによって物語が盛り上がるような仕掛けを意味する。別に富野由悠季アニメのように最終回に登場人物をサツガイするから「オチがつく」ということではなく、単純に人の死がストーリーの重要な起点になるような物語だ。
本作品は序盤から中盤において母の死を起点としてストーリーが進行しているし、最初からラストにかけて、盛大にカヲリが「死ぬ死ぬ死ぬ、あー死んだー」を導入している。メインの「死にオチキャラ」がカヲリ、サブの「死にオチ」が母、という二つの死を燃料、推進力に変え、ストーリーを最後まで持っていっている。
死にオチが哲学的に意味するものは大きい。なぜなら、大前提として、このストーリーは人が死ななかったらさほど盛り上がらなかっただろうし、原作者は人の死に頼らないと感動するシナリオを描くことができないということである。これは2010年以降アニメ界において急速に広がった「痛みの喪失」と大いに関係がある。が、それはいま重要でないというか、話がそれてしまうから、痛みの喪失については、機会があればまた書こうと思う。


ぼくが非常に感心したのは、この作品が、ロマン派から近代、そして現代にいたるまでの音楽家(ミュージシャン)の苦悩を描き出そうとしているからだ。
宮園かをりは、頻繁に公正に問いかける。「キミはどうしたい?」
つまり、曲を「どう弾きたい?」ということである。当たり前のように、それは「想いをこめて弾け」というメッセージだ。そして、作中では公正のライバルを含め、様々なプレーヤーたちがそれぞれの想いをこめて曲を演奏する。「響け!」とか、「キミのために!」とか、そういうセリフにそれは顕著に表れる。
しかし、彼らのアツい思い、情熱は、審査員や指導者など「大人」たちから、しばしば「コンクールは自分探しの場所じゃない」などと戒められている。序盤、公正は母の面影を通じて「譜面通りに弾くことが最も評価されることだ」と学ぶあたり象徴的である。
最終的には、公正がカヲリの死にオチを通じて、実に道徳的で優等生的である「最強の想い」をこめて演奏することで、作品は終わりを迎える。(ネタばれになるから敢えて書かないが、ともかくそういうことである)
一見すると、このような設定というのは、クラシックマンガ、アニメにはもはや「あるある」とも言えるほどありふれているのだが、ぼくにとってはこういう部分に切り込んでいけるということが良い、と非常に感心したわけである。

 

なぜか。じつは、もともと音楽の演奏において「表現すべき内面」などというものは存在しなかったからである。

 

ぼくらはすでに音楽を「あふれでる感情の表現」として、その想いをもって演奏に向かうことを自明のこととして考えている。だから審査員や指導者ではなく公正たち若手にこの上なく感情移入し、「なんだジジイ死ね」などと思うわけである。
ところが、楽器演奏はロマン派まで、「手順通り事を運ぶ作業」であって、感情の表現ではなかった。そこに自分の想いを乗せることは、ロマン派から近代にかけて見出された、新しい感性なのである。つまり、ぼくらが自明だと思っていたことというのは、過去にはまったく自明ではなかったことになる。むしろ「表現すべき内面」自体、歴史的には最近見出されたものなのである。

こういうことは歴史を詳細に検証してもよいが、しかしぼくらの少年時代の成長過程を振り返ったほうが早いので、それを書く。
ぼくらはテレビに出てくるようなバンドに憧れ、そのコピーバンドから音楽生活をスタートさせるのである。はじめは、例えばバンプオブチキンのコピーをやろう!ということにする。その時、ぼくらはバンドスコアや原曲の指示する通り、コピーすることこそが音楽なのであって、それが楽器演奏そのものだったのだ。
しかし例えば、バンプの曲も数曲やり慣れて、ライブにも出てまわりをよく見わたすと、他の人もみんなバンプのコピーをやっている。ぼくらは、みんながやっているバンプの曲を、同じように手順に沿って作業するだけでよいのだろうか?バンプの曲を通して、なんらかの自分たちのオリジナリティを探すべきではないのか。感情表現をすべきなのではないか?
こうして、曲に想いを乗せて演奏をするという行為が生まれる。想いを乗せるからには、その「想い」そのものが、想いを形作る源泉が、自分の中に存在しなくてはならない。こうして、「表現すべき内面」が自分の中に見出されるのである。
ここで注意しなくてはならないのが、そもそも「表現すべき内面」など初めからなかったということである。それはあくまでも、必要に迫られるかたちで見出されたにすぎない。だから、ぼくらは必死になってエピソードを探すわけである。自分の幼年期、少年期から、自分がつらかったことなどを引っ張り出し、あたかもそこに苦悩や葛藤に満ちた内面があるかのように振る舞うようになるのだ。有馬公正はそういう意味で特別である。なにしろ人が2人も死んでいるのだから、表現すべき内面がカンストしている状態とも言える。
余談だが、よくONE OK ROCK的なバンドがライブのMCで「おまえらの中にあるもの全部吐出しちまえよー!」など言うのをよく聞く。しかし、実は吐き出すべき中身というのは存在しない。それは事後的に見出されるのだから。

一度この内面が見出されると、それは大きな影響力をもって、ぼくらの意識を反転させてしまう。あたかも、人間が誰しも表現すべき内面を持った個体であるかのように錯覚されてしまうのだ。
ロマン派以降近代では、ピアニストはみな、「表現すべき内面」をもち、その「想い」を演奏会の場で曲に乗せることが自明だと思われている。それはしかしロマン派以前においてはまったく自明でなく、そうした守旧派(作品中では審査員のおじさんたち)からしばしば反感を買う―『四月の君は嘘』では、この葛藤が見事に表現されていたとぼくは思ったのであった。


ところで、バンプコピーバンドで自分の想いを表現するのには明らかに限界がある。当たり前だがバンプはまだ生きているし、コピーバンドは彼の想いの劣化コピーにしかならないからである。もしそこに、鬱わずらったオレのカッケー苦悩を乗せようものなら、ダサすぎて客席からペットボトルがブッ飛んできてしまうのではないか。
だから、ぼくらバンドマンはまだ「逃げ道」を隠し持っている。なぜなら、自分で歌詞を書いて自分で曲を作ってそれを演奏すれば、それがいかにかっこ悪くとも、確実にオリジナルな内面を表現できていることになるからだ。そう、つまりオリジナル曲とは、表現すべき想いとともに見出された「表現すべき内面」によって、いわば転倒したかたちで生まれたのである。
こうして考えると、クラシックの人たちは本当に大変だ。もともとは機械的に精密な指の動きをするだけで済んでいたものが、現代まで生き延び、延命されているがゆえに、「表現すべき内面」も付け加えて演奏せねばならなくなったからである。しかし事実、『四月の君は嘘』のなかで彼らがやっているのは、ショパンというまこと「赤の他人」の曲に、自分の個人的なジレンマとか少年期の話とかそういったものを無理やり乗せているわけである。これはバンプに例えるとペットボトル飛来ものの話になってしまうから、実際はイタタ…っていうことなのだよなあ…
そう思いながら、ぼくはこのアニメを見ていたのだった。