ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

決意表明みたいなもの

ぼくは基本的に、音楽とは「何かについての表現」であるとずっと思ってきたし、その気持ちはこれからも変わらないだろう。それは美術作品や絵画と同じように、論理的な言葉だけでは伝えることができない何かを、端的に表現するものである。

 

しかし、2000年代以降において日本の音楽が辿ってきた道は、音楽が「何かについての表現」であることを徹底的に否定し、無意味なものにしていく過程だったと言わざるを得ない。音楽は、むしろ「何かのためのもの」となった。

それは疲れた自分を癒してくれるヒーリングものや、つらい現実を忘れさせてくれる「陶酔ー現実忘却系」、そして元気がないときに力をくれる「スタミナソング」に代表されるだろう。ここに挙げたように、何かの役に立たなくてはそれは音楽としての意味がないとされ、単純な「表現」は資本の論理によってはじかれてしまった。

 

もうひとつ、傾きかけた日本社会が抱える「エセ資本の論理」が、音楽界をいよいよ終わらせてしまったことがある。それは、ミュージシャンたちが、【音楽で成功すること=「まわりを出し抜く強い個人」が、手段を選ばずひとり勝ちすること】という愚かな幻想に囚われてしまったことだ。「勝つ」とは何に勝つのか?それは、承認(売れる、集客できる)を巡って展開される終わりなき欲望のゲームに、である。そのゲームは本来であれば、ゲームの勝者こそが強いという「強者弱者」を決めるゲームのはずだった。しかしエセ資本の論理によって、「強者の音楽こそ芸術的にすぐれた作品である」という「ラベルの貼りかえ」が起こってしまった。

 

基本的に、いわゆるメジャーシーンに近いアーティストになるにつれて、この傾向は緩和されるどころかむしろ強まっていくことが、いろいろな人との付き合いで実感されてしまった。人気のあるバンドほど「周囲を出し抜こうと」しているし、音楽は「何かについての表現」ではなく、陳腐化された具体的な目的をもった消費財、と考えている。余裕があるのだから、その逆になればいいのに…といつも思うのだが、そういうわけにはいかない。これは「終わりなき欲望のゲーム」だから、エスカレートし続けるしかない運命にあるのである。今日本で、音楽を表現できて周囲と喜びを分かち合うことができているのは、いわゆる「ビッグネーム」に限られている。

 

ぼくは意識的に、ここ数年、そういった「出し抜き厨」「承認ゲーム厨」とは距離を置いてきたし、やはり音楽は「何かについての表現」だと思って信じてやっている。あらためてこうして文章にするのは、一種の決意表明みたいなもので特に意味はないのだが、少なくともぼくは大切な仲間たちとともに、音楽をする喜びを分かち合っていきたいし、分かち合い派に属しているという自分の立場をちゃんとはっきりしておくためである。