ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『ヒットの崩壊』 (柴 那典 著, 講談社現代新書) を読みました-1

タイトルに連番をつけたのは、なんとなく内容が長くなってしまうと思われたためである。だから、どのくらいボリュームを書くのかは全く決めていないし、すぐに書き終わってしまうかもしれない。つまり特に意味はないので気にしないで欲しい。


本書は2016年に出版された書籍であるが、素晴らしい本だ。プロを目指している人、かつて目指していた人、そして目指してはいないがアマチュアで音楽をやっている人のすべてが読むべき必読の書である。その理由は、アマゾンレビュアーのixdxmさんが書いているとおり、『「音楽の今」を把握するための見取り図』としてよくまとまっていて、わかりやすいこと。そして、90年代の音楽バブルを生で体験してきた世代にとっては、音楽が不況になるありさまを捉えた取材の数々が、おおむねぼくらの体感と一致している点が素晴らしい。

本書はかなり売れているし、レビューはアマゾンだけに限らず山ほど出ているはずだ。だからぼくがいまさら内容をおさらいするようなレビューを書いても仕方ないし、そういうのはアマゾンとか別のサイトに投稿して「いいね!」とか「役に立った!」をもらってウハウハすべき事案である。だからぼくはレビューになるような内容は書かない。ウハウハすることもしない。もっと違った角度から、今の問題点を論じようと思う。

 

ぼくがここから最初に論じようと思うのは、ライブ、フェスの動員についてである。


まず、この本をざっくりと要約してしまうとこういうことになる。
「CDは売れなくなった。だけど売れ方が変わっただけ。ライブの動員は増えているし、フェスが盛り上がっている。海外で主流のストリーミングサービスがいよいよ入ってくるし、ヒットは違った形で生まれ変わりつつあって、今の音楽界はすごくおもしろい。これから楽しみ。以上。」


たしかに、ライブの動員が爆発的に伸びていることと、大型ロックフェスがそれなりに乱立して毎年のようににぎわっていることはぼくも知っている。それは動員記録ガーとか、入場規制ガーとか、そういうあらゆるデータが揃っているから反論のしようがない端的な事実である。消費者は手元に残るCDよりも、一回限りの「きっとプライスレス」な体験にこそお金を払おうとしている…こんな調子で「美談」として語られることも多いのは皆さんも感じておられることだと思う。


実は「思い出に残る経験こそが、もっとも希少価値のあるものである」という「ライブ重視戦略」は、すでに10年以上前から、アメリカで始まっている。どうしてアメリカでこのような潮流が生まれたのか…それは、アメリカ人が音楽が大好きで、アメリカが常に音楽シーンの先端をいっているから、ではない。アメリカこそまさに資本主義が徹底した国であり、ライブこそは音楽ビジネスにおいてもっとも儲かる部分であることが見出されたに過ぎないから、である。その儲かる部分を最大化するためにこそ、あえてCDを「無料音楽」というツールに置き換え、ライブの動員を増やす最適化戦略を採用したのだ。


ぼくが記憶しているかぎり、この潮流にいちはやく気づき、戦略的に採用したのがプリンスとレディオヘッドである。2007年、プリンスはアルバム『プラネットアース』を無料で配布し、ロンドンで21のコンサートを行う作戦に出た。チケットは完売し、過去最大のライブ動員を達成した。レディオヘッドは『イン・レインボウズ』のダウンロード価格を消費者につけさせるという常識破りの発想に出た。その後、行われたツアーではプリンス同様、過去最大のチケット売り上げ枚数を記録している。負けず嫌いのマイケルジャクソンが「This is it!」と銘打って、同じように数日にわたるコンサートを開催しようとしたが、無理が祟って亡くなってしまった。本当に痛ましい事件であった。

 

つまり、ぼくたちは気づくべきなのである。あたかもメディアが「消費者が自主的に体験型のライブを求め、思い出を得るために高いお金を喜んで払っている」かのように報道しているが、それは明らかに自主的でなく、むしろ扇動された結果なのだ、ということに。


その証拠に、各地に点在するライブハウスに動員が増えたという話など聞いたことがない。どこのライブハウスもいまや、瀕死の有様だ。ライブハウスはノルマという形でバンドに集客を押し付け、夢を叶えたいバンドたちの良心を搾取することによって、かろうじてその経営を維持している。ぼくらのバンドでも、特に顔も名前も存じ上げない音楽ファンがフラッと聴きに来てくれた、などというありがたい話はほとんどない。そんなことがあるとすれば夢のような、ありえない話だ。
しかし、仮にもし一般消費者が思い出に残る経験を求めてライブを重視しているのだとしたら、夢のようなありえない話は現実に起こっていてもおかしくない。ライブハウスには体験を求めたお客さんが毎週末訪れ、賑わい、バンドも脚光を浴びる。少なくとも、こんな寂れた現状にも光が射すようなことがあるはずだ。しかし現実には小さなライブハウスは経営に行き詰まり、バンドも活動休止を余儀なくされている。その一方で、フジロックサマーソニックといった大型フェスや、ミスチルラッドウィンプスラルクアンシェルといった「ビッグネーム」からは、毎年のように動員数を過去最大に更新した、入場規制を行った、等のとにかく景気のいい話が山のように聞こえてくる。
つまり、ぼくらは自主的に体験を求めてなどいない。莫大な資本を背景に、もっとも儲かる部分へと効率的に動員され、搾取されるよう扇動されているに過ぎないのだ。

 

「そんなことはない!おまえらのバンドがショボいだけで、現実にはライブで売れてるアーティストもたくさんいる。ミクロにはおまえらカスみたいなバンドしかいなくても、マクロには素晴らしいバンドがたくさんいて、フェスの動員もこれからずっと伸びていくに決まっている!」という人がいるかもしれない。いや、きっとたくさんいると思う。そんな人たちに向けて、衝撃的な記事を一本紹介しよう。


https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29216/2/1/1


↓↓↓引用ここから↓↓↓
2019年に巨大なフェスティバルを開始するというのは、天才的なアイデアか狂気の沙汰のどちらかだろう。毎年3200万人がフェスティバルに参加する一方で、ボナルーやSasquatch!などのフェスティバルでは近年観客が激減している(Sasquatch!は2019年の開催中止を発表した)。フェスティバルへの関心低下の原因についてメディアは辛辣な見方をしており、2017年には少なくとも3媒体で「音楽フェスティバルが多すぎないか?」というタイトルの記事が掲載されている。
(中略)フェスティバルが雨後の竹の子のように増えるに従って、出演者のラインナップが似通っている点を指摘する声も多く上がるようになっている(音楽メディアのピッチフォークは、ロラパルーザ、コーチェラ、ボナルーの3つのフェスティバル全部に出演したバンドの割合は、2005年が15%だったが、2017年では32%と倍以上になっていることを暴露している)。フェスティバルをハシゴするのが好きなファンにとって、フェスティバルごとの出演者と演奏曲の違いを見つけるのが困難になっているのだ。エミネムガンズ・アンド・ローゼズなどの人気アーティストたちは、フェスティバルでのヘッドライナー出演を一度限りの特別ライブとしてツアー日程の一部と捉えている向きもある。
音楽フェスティバルが劇的に増加した一因はストリーミング・サービスにある。つまり、ストリーミングによって実用的な音楽へのアクセス方法が豊富になり、音楽ファンがこれまで以上に個人的な音楽体験を求める方向へと向かったからといえる。しかし、いたるところでフェスティバルが開催される現在、熱く大騒ぎできるはずのフェスティバルが熱気のない型通りのものになりつつある。
↑↑↑引用ここまで↑↑↑

 

つまり2018年現在、アメリカやイギリス、ヨーロッパでは、すでに「フェス疲れ」という単語が一般化しており、ライブの動員が伸び悩むばかりか激減している。要するに、「かけがえのないプライスレスな体験」をライブに求めること自体がフィクションだったことに、みな気づき始めたのである。


アメリカの音楽業界がライブ重視戦略を完全に採用したのが2007年。そこから3年ほど遅れて、日本もライブの動員が伸びてきた。だから、いまから約3年くらいして、日本のオーディエンスはおそらく「フェスに疲れ」はじめるだろう。

 

CDも売れない、ヒットするアーティストも育てられない。かろうじてフェスやライブの動員は良かったが、そうして頼みの綱の動員が「フェス疲れ」してしまったら、日本の音楽業界に一体何が残るのだろうか?
ぼくはいまの「音楽界はいま楽しいし、これからも楽しみ」という楽観的なムードがとても嫌いだし、危惧を覚えずにはいられない。