ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

Rolling Stone誌で思ったことの続き

前回、ぼくはローリングストーン誌の記事に絡めてエレキギター存続の危機について語ってきた。80年代から今に至るまでずっとサウンドの中核に位置してきたエレキギターが、アメリカではついにその役割を終えているのではないかという歴史的局面に相対しており、それは我が国のポップスの文脈からみても大変に興味深い事例であることを示してきた。


繰り返しになるかもしれないが、ぼくはこの「エレキギター絶滅危惧種」現象をギターだけの問題でとらえるのには反対だった。なぜなら、その奥には「既に絶滅してしまった」たくさんの楽器たちの屍があるからである。最初にリズムマシンによってドラムは置き換わり、シンセベースという形でベースも消えた。ピアノ、キーボードは複数の音と音色を同時に鳴らすMIDIのシステムの発展によってその地位を奪われたし、しかも現在はシーケンサーソフトの登場によって、音色を格納する音源やシンセサイザー本体の存在すら必要なくなっている。


このような状況の中、エレキギターすらも容易に電子音に取って代わられるのではないかと思われたが、実際にはむしろ逆にはたらき、日本では20年ほど、主役の座に居座り続けることができた。注目すべきは、エレキギターがその地位を受け渡すよりも先に、興味深いことに「ボーカル」が不必要とされるようなテクノロジーの発展があったことだ。『初音ミク』、ボーカロイドの登場である。

「ボーカル」の不必要化は主にニコニコ動画などの動画配信プラットフォームなどにおいて、「P」と呼ばれるような特殊な文化を生み出す。「P」とはもともとプロデューサーの意味で、ボーカロイドたる初音ミクをプロデュースして歌わせる人「ボカロP」というところから来ている。これは結局のところ、「たったひとりで孤独に作曲をした曲を、不特定多数の人たちの中で共有しあう文化」である。その後、現在進行形の日本で起こっていることは、そのような「孤独に曲を作ってきた人たち」がシンガーソングライターとして日本の音楽市場を席捲しているという事態である。


本当に周知の事実だと思うのでこれ以上の説明は加えないが、いま日本で最も売れているアーティストは「米津玄師」である。彼はソロアーティストだが従来型のシンガーソングライターではない。主にニコニコ動画などの動画配信プラットフォームなどにおいて曲をアップし続けてきた、元「P」だ。そのような活動をしているアーティストは、他にも「イヴ」などがいる。とにかく2019年現在、いまこの日本は「優秀な"個"が孤独に楽曲を作り、そのクオリティの高さを不特定多数が称賛する」という世界になりつつあることを念頭に置いていてほしい。


ぼくの考えでは、このような世界の在り方と「エレキギター絶滅危惧種」現象は偶然に重なったことではなく、同じことを背景にして起きている。つまり、エレキギターが楽曲から消え去ろうとしていることは、単にひとつの楽器の登場頻度が減ったというシンプルな問題ではない。むしろこれは、人間が「集団で音楽を創造することをやめたこと」を意味し、ぼくの問題意識に引き付けて言えば、「バンドという形態」に対する存続危機の問題なのだ。


いや、ちょっとまてそれはおかしい、「米津玄師」も「イヴ」もめちゃくちゃギター使ってるじゃないか、と反論する人がいるだろう。しかし、これは共同作業を必要としなくなった音楽が、「日本では過度なギターの使用」、「アメリカではギターの不要」というふたつの極端なアウトプットで現れてきているに過ぎないのだ。全世界的に、人々は「共同作業の成果」としての音楽を一切求めなくなった。それは急激に起きたことではなく、テクノロジーの進化に比例して徐々に起こってきた。それが臨界点を超えた結果、アメリカではついにエレキギターがそもそも不要となったし、逆に日本では、過度にエレキギターを必要とするケースが現れた。

バンド不要論についての反論をあらかじめ予測しておくと、前時代的なカッコ良さに注力した「ファッションとしてのバンド」というのは、ビジネスという意味でこれからも永遠に残り続けるだろう。それはぼくもまったく否定しない。しかし、「共同作業という意味においてのバンド」の存続危機の問題は、現在進行形で深刻化している。そしてエレキギターの消失、「米津玄師」の空前の大ヒットは、ぼくたちがその流れに抵抗するすべを持たなそうであることを端的に示している。