ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が大コケした話

ドラゴンクエスト5の映画化作品である『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てきた。ご存知の通り、この作品は途中までうまくトレースしていたゲーム原作のストーリーを、終盤の「ひっくり返し」によってラジカルに破壊した映画として話題になっている。ドラクエファンの怨念は極めて深く、例えば、eiga.comのようなウェブサイトにいくと、「悲しさと憤りで許せなく、このレビューを投稿するために会員登録しました」といった心のこもったレビューを見ることができるし、映画の平均点はなんと5点満点中2.1点という驚くほど低い点数であることも確認できる。

 

ぼくも上映開始翌日に見て、全体として完成度は申し分なかったものの、やはり彼らの感想と同じく、ラストの締め方は唯一褒められないと思っていた。クライマックスにおいて、突然に魔王ミルドラースが「仕組まれたウイルス」であることが判明し、主人公リュカが実は「VRによってゲームの世界を楽しむプレーヤー」であったと明かされる。繰り返しになるが、この締め方は褒められない。なぜならそれは、「…という夢を見ていたノサ」という「夢オチ」と構造的に変わらないものだし、SF系映画の界隈では「実はVRでリアルなゲームを楽しんでいましたとさ」は「実VR」と呼ばれるくらい「有名なひどい終わり方」のひとつである。これがにわかに信じられない方は、例えば『トータル・リコール』などの近未来SF作品を観ていただければすぐに理解できると思う。


つまり単純化して言ってしまえば、今起こっている『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』論争なるものは、「夢オチってアリだと思う?」「ないわー」「いや、オレは評価するけどネ」を延々と繰り返しているに過ぎない。

例えばこんなの↓
【ネタバレあり】『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』論争巻き起こる作品構造を読み解く
https://realsound.jp/movie/2019/08/post-400786.html

「作品構造を読み解く!」と息巻いてみせても、結局は「夢オチ」や「実VR」の是非を、自分の感覚に引き付けながら無理やり正当化せざるを得ないのである。これは一言でいうなら、「不毛」そのものではないか。
…とまあ、以上のような状況であるから、逆にぼくは不毛な二項対立から離れた場所から、もう少し違った形でドラクエについて熱く語ってみたいと感じさせられた。

 

ぼくが『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のひどいラストを観ても冷静でいられたのは、ぼくにとって『ドラクエ5』が、さほど思い入れのある特別な作品ではなかったからである。『ドラクエ5』はスーパーファミコンではじめてリリースされたドラクエシリーズである。だが一方、スーパーファミコンという新しいハードウェアが発売された当時のエニックスは、ファミコンで前作『ドラクエ4』をリリースしてからまだ日が経っていなかった。ドラクエはその開発期間が非常に長く取られている作品として有名であったため、その発売時期は新しいハードウェアのリリースに対しかなり遅れての登場になってしまっていた。つまり、『ドラクエ5』のリリースは若干の「機を逸した感」が否めなかった。


ぼくはどちらかというとファミコンの『ドラクエ4』のほうが好きであり、それこそ何十回もクリアしている。だが、『ドラクエ5』以降、ぼくは段々と「ドラゴンクエスト」という世界観そのものに飽きはじめていた。一例をあげるなら、『ドラクエ5』の突然の「結婚しますか?はい/いいえ」に巻き込まれる世界観よりは、お互い惹かれあいながらも最終的に結ばれたかどうか微妙に明言されない、「ロック」と「セリス」の恋愛の駆け引き(ファイナルファンタジー6)のほうにリアリティを感じるようになっていた。だからここから話すことは、あくまで『ドラクエ5』をプレイはしたものの熱中することがなかった少年が、大人になって単なる感想を書き込んだものに過ぎないことを、最初に断っておく。

 

それでは改めて、ドラゴンクエストについて考えてみる。『ドラクエ5』の世界観を支える「天空の勇者」とは一体、どういうことなのだろうか。実は、ドラゴンクエストシリーズにおいて「天空の勇者」という概念が初めて登場したのは、前述の『ドラクエ4』が初めてである。それまでのドラクエは、徹底して「伝説の勇者」というキーワードが支配していた。伝説とはつまり歴史のことでもあるし、「天空」の比喩に対比すれば「大地(地球)」とも言える(実際に『ドラクエ3』では火山の穴の奥深くに存在する地下世界を攻略するので、この対比は正しいはずである)。ようするに、「天空」が現れるまでの勇者とは、歴史を紡ぐ英雄譚の中にあり、その歴史の反復こそが魔王を倒す勇者一行の物語になる、という構図を取っていたのだった。


ところが、「天空の勇者」はそのような、この大地で人間たちが紡いできた英雄譚の伝説を必要としない。地上人が決して交わることのない「天空人」が、単なるきまぐれで地上に遣わされたときに宿す子供…それこそが「天空の勇者」である。少しでも文学や社会学に詳しい人であれば、あきらかにこの「天空の勇者」がキリスト教における「イエスキリスト」の設定をなぞっていることをわかっていただけると思う。「天空の勇者」シリーズは、天空人の血縁者が、地上に降りることで奇跡を起こし、世界を救う話だ。それはまさに、神の子イエスが、救世主(メシア)として遣わされることの変奏曲なのである。

 

ドラゴンクエストシリーズにおいて、天空の勇者がイエスキリストであったことを述べた。ところでもうひとつ、「天空」の概念が導入されると同時に、ドラクエの主人公にはひとつの重要な変化が生じていることも見逃してはいけない。それは「主体」の物語の生成である。
ドラクエ3』までの主人公(勇者)は、自らストーリーを語ることはなく、他者の語りかけに「はい/いいえ」で受動的に答えるだけの自動機械のようであった。その「主体」は、大げさにいうのであれば人格ももたないし歳もとらない、そして性別もなかった。一言でいえば、その人物像の「設定」や「人生」、「物語」というパーソナリティを記述する情報がおおきく欠落していたのである。このような「一部欠損状態」の主人公に、人格と人生、物語を与えることとなったのは、まぎれもなく『ドラクエ4』以降の「天空の勇者」の設定である。例えば『ドラクエ4』の主人公は、天空人であるがゆえに幼馴染を殺され、冒険の果てに自らの故郷と母を知る。『ドラクエ5』の主人公は、天空人である母を奪われ、父を失いながらも、最終的にはわが子が勇者となる親子三代の物語である。

 

初期ドラゴンクエストシリーズ「伝説の勇者」は、主人公の人格に大きな欠落を抱えていた。その穴を埋め、人間性を回復することができたのは、「天空人」や「天空の勇者」という想像力であった。「天空の勇者」は、天空人の一族の血縁の物語でもある。勇者であるかどうかは、基本的には血筋が決定し、勇者はキリストの再来と考えられた。しかし他方で『ドラクエ5』においては、まったく偶然に、自分が勇者の父親であることが告げられたのである。勇者はある日突然、偶然に姿を現す。しかし勇者は、勇者をはぐくむ共同体(家族)がなくては生きてはいけない。だから「天空の勇者」の物語は、じつは「家族」について語る物語でもある。


どうしてぼくがドラクエの「家族」性に注目したのか。それは2010年代頃から、どういうわけかぼくたちは、「家族」について語るアニメの類を徐々に失っているという背景がある。例えば『ドラゴンボールZ』は「サイヤ人」という血縁による物語と、悟空の息子たちとの物語である。『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルはジオンダイクンの息子で、アムロ・レイも技術者ティム・レイの息子であった。『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジも、父ゲンドウの組織の中で苦悩し格闘する。
他方、いま流行っている物語「異世界転生モノ」であるが、基本的には「どこにでもいる平凡で家族のいない俺が死んで異世界にいった」という構造を取る。そこには、親交を深めて疑似家族のようになる例も描かれたりはするものの、血縁関係による家族の物語がない。ぼくたちは大人になるにつれて、ドラクエを楽しむ心を単に失ったのではない。むしろ、時代が物語から「血縁」「家族」を奪い去ってしまったのだ。

 

ここから強引に最初の話に戻そう。2019年の現在において、「天空の勇者」の物語を復活させるのは容易ではなかったはずである。それは、単に「中年男性の思い出の再構築が難しい」という技術的な問題だけではない。その困難は、いまぼくらが生きている時代が、「天空の勇者」が本来持っていた「神秘性」「血筋と血縁」「家族の物語」の失効してしまった時代であることと密接にかかわっている。
そういうわけでぼくは、いい脚本を書くことができなかった監督一同には失望を禁じ得なかったが、ある意味で不憫だったなと感じている。