ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

慰霊と追悼

先日、ぼくの父方の祖母が亡くなった。97歳で、もう6日生きていれば98歳だった。死因はパーキンソン病による認知症の合併症と、それに伴う身体機能低下であったが、大変な高齢だったので、立派な大往生と言ってもいいと思う。

 

ぼくは小学生の頃、祖母のことが大好きだった。葬儀の際にはじめて聞かされたことだが、祖母もぼくのことをほかの孫たちに比べて特別に溺愛していたらしい。当時は両親が共働きで、祖父母とともに暮らしていた。母親が働きに行っている間は祖母と二人きりになることが多く、彼女はひたすらぼくを甘やかした。実は小学生までのぼくは本当にバカで頭が悪く、他の子どもとまともにコミュニケーションが取れなかったため、通知表はオール1の成績だった(おそらく、現代医学のガイドラインに照らせば、間違いなく発達障害になると思われる)。しかし、祖母はそんなぼくをかわいいと思い、勉強なんかできなくても、クラスになじめなくても、そのままでいてくれればいいと本気で思ってくれていた。

 

ところが、これはどこの家にもよくあることだが―、祖母は母と折り合いが悪く、しばしば対立していた。きっかけは同じ台所に女が二人も立つなというような些細なケンカだったかもしれない。しかし、二人は特にぼくの教育方針をめぐって対立するようになった。
母は合理的な考え方の持ち主で、なおかつ過激な人だった。ぼくのように頓馬で愚図な男は、厳しくしつけをして普通と同じレベルに追いつかせないと後々ダメな人生を歩むことになる、と強く危機感を持っていた。集中力がない態度をすれば怒鳴られ、小テストで0点を取るときつく絞られた。一方、祖母はぼくに集中力がなくても、0点をどれだけとっても、ぼくがありのままの姿でのびのびと成長することを望んでいた。
結局、二人の仲違いは解消されず、父親は祖父母の家から遠く離れた田舎に家を買い、別々に暮らすことを決めた。これも葬儀の時に初めて聞いたことだが、このとき祖母はぼくと離れるのが悲しくて、ほんとうに号泣していたらしい。

 

その後、ぼくは母の厳しいしつけにも耐え、中学生になると某予備校の全国模試で1位を取ったりするようになる。結果的に言えば、確かに母のしつけは正しかった。もしぼくがあのとき、祖母の言う通りのびのびと甘やかされていたら、今ごろは無職の中年男性ひきこもりとなっていただろう。もちろん、結婚することもできなかったと思う。しかしぼくは一方で、普通の子供であれば成長するうえで本来受け取るはずの「そのままの自分で生きていいんだよ」というメッセージを得られないまま、ゆがんだ形で大人になってしまった。
例えば、ぼくは高校生になると、あえて勉強することをやめて、わざと成績を落としたりするようになった(その後の人生でもぼくは突発的に暴走したりしているので、そのあたりの起源もここにあるかもしれない)。さらに高校3年生の5月には、文化祭の出し物で演劇をやろう!と盛り上がっていた際に「ていうかオレ、最短コースで大学に合格するためだけにここに来てるんで、そんな無駄なことやりたくないんだけど」と言ってクラスをシーンとさせ、1年間ほとんど誰からも口を聞いてもらえなくなったりもしている。こういったエピソードを交えると、母のしつけも実際にはあまりうまくいってなかったことがわかっていただけるだろう。ぼくは典型的な「入試の成績がそこそこ良いだけの、ただの痛いやつ」になってしまっていたのだ。

 

結局、15年前、ぼくがまだ大学生のときに母は亡くなってしまった。母はぼくに学歴という翼を与えてくれたし、後々それが仕事に繫がって働くことができるという最高の環境を用意してくれた。しかし、道半ば逝去してしまったせいで、ぼくは「ありのまま、そのままの自分が愛される存在なんだ」というメッセージを得る機会を永遠に失うことになる。
そこからの数年間は、ぼくにとって思い出したくもないほど過酷な日々だった。ひどく貧しくて、100円ショップのウエハースだけで1日を凌いだこともある。夜の公園や、ネカフェを寝床に渡り歩いたことも幾度となくあった。ぼくは、どうして自分がこんなに苦しいのかわからなかったし、周りの人たちがどうしてあんなに順調な人生を送っているのか、そのからくりが全然わからなかった。ぼくはなんとなく、それを社会のせいとかお金のせいとか、若気の至りで無茶をした報いを受けたんだとか、または単純に運が悪かったというふうに思い込んでいた。

 

意外な答え合わせの機会は、母の死後15年経った、祖母の死によって訪れた。ぼくは祖母の葬儀の場で、彼女がぼくをどれだけ愛してくれていたかを知ることができたし、また、今まで忘れていたそのことをはっきりと思い出したのだった。


母がぼくに与えてくれたのは、この資本主義という戦場で勝っていくための道具と力である。他方、祖母がぼくに与えようとしてくれたのは、ぼくという人間存在そのものの大切さと、人間を愛し信頼することの大切さだったのだ。この違いは端的に、「理系的←→文系的」と言い換えてもいいと思う。
人間は、この社会の中で仕事をし、食べ物を得なくては生きていけない。それが母のメッセージである。しかし同時に、人間は人間を愛し、信頼し、許していかなくては生きていけない。祖母はぼくに、それを教えてくれた人だった。そして、ぼくは人生も折り返し地点を過ぎた今になって、ようやくそのことに気づいたのだった。
(これは、母の育て方に愛が足りなかった、という単純な話ではない。母は母としての息子への愛ゆえに、ぼくをきちんとした人間になるよう導いてくれた。だからぼくは無職中年男性ひきこもりにならずに済んだのだし、その愛の深さはもう本当に、感謝してもしきれないことだ。)

これから先、ぼくがどうやってその思いを引き継いでいけるかわからない。まずは、ぼくなりに、ご冥福をお祈りする。