ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

新しい連帯の形

ありがたいことに、いまバンドのピアニストというポジションをやらせてもらっているのだが、実はぼくはピアノ用の譜面、いわゆる五線譜がほとんど読めない。しかもロジカルオシレーターにはギタリストがいないので、ピアノが唯一のコード楽器であり伴奏楽器であり、場合によってはアドリブでソロも取る。


にもかかわらず、こんな体たらくのぼくにピアノを任せているのだからうちのバンドのメンバーは本当にすごいとしか言いようがない。これこそ信頼関係を端的にあらわしている気がする。

 

ところで、幼少期にピアノを習ったりすると、それは間違いなくクラシックピアノになる。バイエル的なものから始まり、ツェルニーソナチネソナタを超えてショパンに続く長い道だ。このピアノ能力において最も評価されるのが、譜面に忠実に弾くことである。

それは間違えない、ミスタッチをしない、譜面に書いてない余計なニュアンスを入れないとかいうこともあるが、そもそも初めて与えられた五線譜の読譜をかなりのスピードでこなす技術が要求される。

 

このようなことを要領よくこなすことができた子が、「ピアノの才能がある」子になる。逆に五線譜が読めない子は「才能のない、努力のしない」子として見捨てられ、スタートラインに立つことすら許されないのだ。

ぼくは五線譜が読めないから、一度は見捨てられた。それでもピアノに向かって日々努力をして、バンド活動をして仲間を作る中で、気づいたことがある。

 

それは、意外と五線譜が読めないピアニストがまわりに結構いること。

 

つまり、ロックやポップスの世界は、幼少期に五線譜が読めなくて見捨てられ、才能ない子の烙印を押されたにもかかわらず、ピアノへの情熱が捨てきれなかったプレイヤーたちの受け皿として機能できているのだ。これは考えてみるとすごいことで、ジャンルがもつ自由な風土が、文化が、われわれのようなはぐれ者を許容し受け入れることができているのだろう。


逆にこう言うこともできる。クラシックピアノはおそろしく排他的なのだ。規律訓練型の練習を強い、それに追従できなかったものを排除する。一度排除されたものは、その後永遠に排除され続ける。それほどまでに、許容度の低い文化なのだ。
クラシックは気高く華麗であり、人類が長い歴史と鍛錬を経てたどり着いた、最高の芸術である。それは認める。だけれども、そこには自分たちの友とそうでないものの間の区分を明確にひき、友と認めなかったものを排除する「友敵思想」が含まれている。クラシックは最高の芸術であり続けるため、ともに頂点を目指す最高の友、仲間以外のものを排除し続けなければならない。


一方、排除されたぼくらはどうか。ロックやポップスなどの周辺世界で、浮遊する幽霊のように点在し続けるほかない。しかし最近思うのは、こうやって排除されたぼくらが点在するだけでなく、事後的に連帯することで、クラシックピアノ界よりはるかに大きな可能性を見出すことはできないだろうかと本気で考え始めている。残念ながら、自分にはコミュニケーション能力が足りないので一切そんなことはできていないが…