ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

ジュラシックワールド2 炎の王国をみました

ジュラシックワールド』とは、20年以上も前の作品『ジュラシックパーク』から派生する、あらたな恐竜アクション―パニック映画である。『ジュラシックパーク』については、もはや説明は不要だろう。いや、若い読者はひょっとしたら逆に知らないかもしれない。しかし、そもそも若い人はこんなところに来ないか。スティーブン・スピルバーグ監督が、当時最先端だったCG技術を駆使して、恐竜を現代に蘇らせたという伝説的なハリウッド映画である。ストーリー自体も、遺伝子工学を用いた生物学の技術によって現代に蘇った恐竜が脱走、繁殖などして襲い掛かってくる。そこから主人公たちが逃げ惑うアクション―パニックものになっており、複雑なメッセージよりもむしろ、画面の中でリアルな恐竜が動くそのさまを見ることが目的だったといっても過言でなかった。


ジュラシックワールド』の1作目は3年前に公開されているが、作品の内容、メッセージ性はほとんど『ジュラシックパーク』と同じである。科学者や管理する人間たちの驕りから、恐竜が檻から脱走し、パークをパニックに陥れる。『パーク』との違いは、主人公が理科系研究者-学者同士のカップルではなくなり、若い美人経営者と海兵隊出身のバンカラ野郎のコンビになったところである。このあたりも時代性をはっきり表しているのだが、当時は大学の学者、研究者であることがステータスでありえた。20年前、大学の研究は夢があり、研究はかっこよかった。なにより、研究成果はぼくらの社会を豊かにするものに直結すると信じて疑われなかった時代である。「末は学者か先生か…」これは頭がいい子に対して親や親戚が言った言葉である。だが今はそんな幻想ははっきり失われている。学者は有期雇用で給料も低い。いつまでも研究生活などしていられないから、好きなことをあきらめて就職しなさいと周りから諌められる日々。先生はモンスターペアレンツのクレームに追われ、ブラック企業並みのサービス残業をする日々だ。それよりも、若くして投資に成功したり、ファンドを経営したり、あるいは起業するビジネスパーソンがカッコいい。もしくは顔がよくて筋肉ムキムキ、たとえ恐竜が来ても実力で排除できるイケメン―ほとんどギリシア時代の英雄のような―がカッコいい時代となったことを象徴している。「カネ」か「力」か、の二元論…まさに現代社会をそのまま投影する主人公像だといってもいいだろう。

 

話が長くなりすぎた。『ジュラシックワールド2 炎の王国』は、その島から逃げ出したあとの話だ。恐竜をモノだとしてしか見ていなかったヒロインのクレアが突如恐竜愛に目覚め、「恐竜を島から助けてあげなくちゃ…」というところから唐突に幕を開ける。
正直言って波乱すぎる幕開けだろう。監督は、公開前のインタビューなどで「アニマルライツなどのコンセプトも盛り込んだダークな作品」だと語っていたようだが、これはその領域を逸脱してぶっ飛びすぎていると感じざるを得なかった。しかし、実はその問題意識はかなり的を得ている。的を得ているとはつまり、現代社会の問題を鋭くえぐり出している。これはアニマルライツを題材にすることで、人間の感情が誤作動をひきおこすまさにその瞬間を描ききった作品になっているのだ。


この作品には3回ほど印象的なシーンがある。1回目は、島から逃げ遅れた草食恐竜が悲しそうに鳴くシーン。2回目は、ブルーというラプトルの恐竜が人間に対し共感能力を持ち、檻から出たあと悪者に襲い掛かるシーン。最後に、小さい子が我慢できなくなり、屋敷の恐竜をすべて外に脱走させるシーンである。


1回目のシーンにおいて、観客は哺乳動物ですらない、空想上の恐竜をじつに愛おしく感じる。それは人間ではないし、犬やネコでもない。その上、隕石の落下によって絶滅したと言われている恐竜が、同じように自然界の摂理である火山の噴火によって滅びていくのは単純に歴史の反復である。ぼくらは隕石絶滅のエピソードを1万回聞いても、おそらく恐竜には共感しなかったはずである。しかし、にもかかわらず、目の前に火山の噴火によって悲しそうに鳴く恐竜を見ると哀れみを感じ、かわいそうだなあ、乗せてあげたらよかったのに…と思ってしまうのだ。人間の共感ーかわいそうだと思う哀れみの感情は種を越え、哺乳動物であるかどうかの境界も越えて、空想上の生き物にまで働いてしまう。これは端的に、人間の感情が誤作動を起こしているといってよい。
そして、非常に重要なのが2回目と最後のシーン…恐竜が脱走するシーンである。恐竜が脱走するシーンはとてもカタルシスがあり、視聴者は見ていてスカッとするようになっている。抑圧されていた恐竜は檻から出たあと、どちらも悪役側の手下や悪の権化のやつを殺戮して出て行く。きっと脱走後もたくさんの無関係な人間を殺戮することは間違いないが、細かいことはとにかく置いといてすっきり。そういう作りだ。


ぼくはこのシーンに異様な違和感を覚えた。きっとぼくだけではないだろう。これはつまり、「人間だが立場の違う他者」よりも「人間から生物学的、時間的に果てしなく遠い他者 (恐竜) 」を愛する話なのである。


ぼくらは身近な家族を愛することができる。身近な友人たちを愛し共感することもできる。しかし、そこから先の他者を愛する想像力を持たない。脱走してしまった恐竜によってサーフィン中に食い殺されてしまう他者を、お金に困窮して仕方なく悪の組織ではたらくガードマンの仕事をする他者を愛することができないのだ。そのかわり、絶対共感しあうことができない、世界と時空を超越した空想上の動物を愛することはできる。

ぼくらがいま生きている時代とは、人が「自分とその近く」と「世界の終わり」しか考えることができないのであり、「自分」と「世界の終わり」をつなぐ中間の「世界」について想像力をもちえない時代なのである。(以前、同じ問題意識で音楽に関するブログを書いたので、こちらも参照いただきたい→https://ameblo.jp/hobo-usa/entry-12302235390.html

ぼくたちは自分の身近でまじめに生きている他者には共感することができず、しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。
ジュラシックワールド2 炎の王国』は、そういう時代にぼくらが生きているらしいということを見事に描ききったと言える。