ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

ラブひなた荘

ラブひな』というマガジンに連載していた漫画のタイトルを聞いて、嫌な顔をする人は多いだろう。それもそのはずで、この漫画は一話につき女の子のパンツや裸やその類が必ず複数個挿入されている、れっきとした「パンチラマンガ」であるからだ。しかしながら、残念なことにぼくはこの週末を利用して『ラブひな』全14巻を読破してしまった。そして意外にも面白い気づきがあったので、少し紹介しようと思う。


ラブひな』は主人公である浦島景太郎が、幼い頃に「約束の女の子」と「一緒に東大行こう!」と約束したことから始まる。彼はその思い出を守るため東京大学を受験しようと試みるが、ことごとく失敗している。2浪ののち家を追い出された景太郎は、祖母が経営するはずの温泉旅館を頼るのだが、そこは女子寮「ひなた荘」であった。この物語は、浦島景太郎が唐突に「ひなた荘」の管理人となり、東大を目指して勉強することを口実に、住人の女の子たちと「ラッキー・スケベ(ラキスケというらしい)」に満ちた酒池肉林の日々を過ごすストーリーなのである。


ラブひな』は女の子がきわめてたくさん登場するというギャルゲー要素が強いため、メインヒロインを特定しづらいのだが、ヒロインは明確に二人存在する。「成瀬川なる」と「乙姫むつみ」である。
成瀬川なるは景太郎と同じく東大を目指しており、全国模試でもトップクラスの成績だったが受験に落ちてしまう。高校時代の家庭教師、瀬田に恋をしており、それが東大を目指すきっかけであった。また、幼いころは病弱でもあって、記憶をほとんどなくしている。
一方の乙姫むつみは超天然のマイペース野郎で、なると同じくほとんどの記憶を失っていたが、抜け目なく景太郎が初恋の相手であったことを思い出しており、「約束の女の子」のことを唯一記憶する存在となっている。彼女もまた、二人と同じく東大を目指している。


この「浦島太郎」「乙姫」というネーミングからもわかる通り、明らかに「ひなた荘」とは景太郎にとって現実から隔離された「竜宮城」である。ゆえに、ここには一種の倒錯がある。一般人にとってまさに「夢のような話」である東大合格も、景太郎にとってのは夢のようでいて、実は全くそうではない。読者は竜宮城「ひなた荘」でくりかえし「ラキスケ」な遊戯に耽っている、その景太郎の生活こそが「いつまでもこんなふうにドタバタしていたい夢」に感じるのだし、東大こそがまさに「いずれ訪れる、向き合いたくない現実」だと感じるのだ。
ラブひな』の世界に外部は存在しない。たまに予備校や東大が描かれるが、特に東大はまるで仏像のようにその姿を現すだけで、実際にそこを舞台に物語は展開しない。予備校の同級生も二人ほどいるが、影は薄く基本的には非モテモブの域を出ない。だからこの作品は、外部のない「ひなた荘」の中でひたすら女の子たちと永遠に戯れるお話である。この構図はまさしく、「友引町」という街の中のみでドタバタし続ける『うる星やつら』を考えてもらうと分かりやすい。『うる星やつら』には決して外部は存在せず、いつまでも続く珍道中を、学校を中心とした狭い登場人物たちの中だけで繰り広げていた。『ラブひな』はそうした「外部を必要としない島宇宙ユートピア」の、男目線ハーレム版と解釈できるだろう。


と、ここまではwikipediaで『ラブひな』と検索すれば誰でもアクセスできそうなことばかり書いてきた。だから、誰にでも思いつきそうなことしか言っていないはずである。しかし、ぼくが考えるに、この作品が真に面白い展開を見せるのは8巻以降と言える。実はこれまで説明してきたことは『ラブひな』の単行本7巻までの設定なのであり、そこまではありきたりでたいして面白くないのだが、8巻以降にこの作品のオリジナリティが発揮されているのだ。どういうことか。実は8巻以降、景太郎は成瀬川なるや乙姫むつみとともに、東大に合格してしまうのである。


先ほどぼくは、景太郎にとって東大こそが夢ではなく、むしろ戻りたくない現実であると述べた。これは隠喩として言ったのではなく、ほとんど文字通り、東大合格をきっかけにして景太郎が現実世界(ひなた荘の外部)へと引き戻されてしまったことを意味する。事実、景太郎は一度も大学に通うことが描写されないし、そして瀬田さんの手伝いをするためアメリカ留学をするので、ほんとうに作品から消え失せてしまう。つまり、8巻以降の『ラブひな』は、浦島太郎を失った竜宮城の住人たちが、もう一度浦島太郎を取り戻す作品に変貌するのである。


8巻以降の主人公は、誰が見ても明らかなとおり、成瀬川なるである。ゆえに物語は、景太郎という「ラキスケを目撃する第三者の眼」の不在のまま、成瀬川なるを中心とした女の子たちのエロいシーンが立て続けに起こるきわめて珍しい事態へと突入していく。


さて、ここで重要な問いを立ててみよう。浦島景太郎が浦島太郎だとしたら、そして、乙姫むつみが乙姫なのだとしたら、いったい成瀬川なるとは何者なのか?
実は、何者でもない。それは先ほども例に挙げたwikipediaで「成瀬川なる」と検索すれば、設定が非常に薄いことがわかるだろう。成瀬川なるは単にそこにいた、竜宮城のひとりの住人に過ぎなかったのだ。

7巻には印象的なシーンがある。景太郎は左手にむつみの手、右手になるの手を握り、階段を上る。登り切ったところで、「どちらかひとり、好きな娘を選んで。選んだ娘の手は握ったままで、選ばなかったほうの娘の手を放して」と要求される。しかし、景太郎はどちらの手も放すことができなかったのだ。景太郎は一人の女の子としてなるのことが好きだから、手を離すことができない。しかし一方、なるは何者でもないゆえに、「約束の女の子」である乙姫の手も離すことができない。このシーンは、景太郎の優柔不断性を強く表しつつも、実はヒロイン成瀬川なるの設定―好きな男の子に選んでもらうための根拠の不在を鋭く突いているシーンでもあったのだ。


8巻以降の主人公となった成瀬川なるは、人が変わったように強くなる。東大に落ちたと勘違いして家出してしまった景太郎にカツを入れにいくし、景太郎の妹とも互角に渡り合う。最終的には景太郎の容姿や言動が、昔のあこがれの人だった「瀬田化」するというオイシイ展開にも恵まれる。成瀬川なるは、それゆえカッコよくなったかつての主人公と結ばれ、幸せをつかみ取る。そうして『ラブひな』全14巻は完結するのだった。
そう、8巻以降の『ラブひな』は、決して何者でもなく、何者にもなれなかった成瀬川なるが、何者かに「成る」ストーリーだったのだと言える。成瀬川なるは浦島景太郎を取り戻そうと必死でもがいた。それは好きな人を取り戻すための旅のようでいて、設定の薄かった自分自身をもう一度取り戻す旅に他ならなかったのだ。


そういう点で、『ラブひな』は非常に面白い作品だった。実は他にも「浦島景太郎の去勢」というテーマについて語りたかったが、それは紙面の関係上また今度どこかで書くとしよう。