ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『天気の子』最速レビュー

最速、って言ってみたかっただけ。

 

『天気の子』という、新海誠監督の最新作映画を見てきた。この作品のあらすじや、トータルとしてどういう評価を得ているかという概要については、例えばeiga.com的なウェブサイトに行けばいくらでも見ることができるので、有用な情報を得たい方はそちらを訪ねていただければと思う。ぼくはここでは前作『君の名は。』との比較において、『天気の子』を見た感想をつらつらと書いていくだけである。

 

まず、新海作品を語るためにはある単語を整理しておかなければならない。それは、今回の作品でも話題になっている「セカイ系」というキーワードである。セカイ系とは、「ぼくと君との恋愛感情をめぐるちいさな人間関係」が、いつのまにか世界の運命に直結しており、「世界の危機」「この世の終わり」というおおきな問題に突き当たる物語群を指す。例えば『君の名は。』では、平凡な10代の男の子が別の女子高生と体の入れ替わりを体験し、「ぼくと君だけのちいさな人間関係」を作り上げるが、その二人だけの関係はいつのまにか隕石落下による未曾有の大災害という「世界の終わり」に結びついてしまう。二人は神さまの力を借り、時空の結び目という特殊な回路を用いて、失われた世界を救いだすことに成功する。
大まかにいえば、高橋しんの『最終兵器彼女』もそうであるし、『涼宮ハルヒの憂鬱』もそういう構図を持っている。今に至るまで、数百を超える作品がこのような「きみとぼく」と「セカイの終わり」を直結させて描いてきた。ところが、『天気の子』は、この従来の「セカイ系」という呼称が当てはまらない可能性がある。

 

『天気の子』は確かに、平凡な家出少年「ほだか」が、晴れ女の「ひな」とちいさな恋愛をし、二人だけの狭い人間関係をつくり上げる。そして一見、ストーリーは「長く降り続ける異常気象の雨」という「セカイの終わり」に直接結びついているように見える。
しかし今回、実はそれは逆転しているのだ。『天気の子』において終わるのは、世界ではなく「ひなの命」のほうである。異常気象で雨が降り続くこと、それ自体が自然の摂理を意味し、つまり世界は「あるがまま、そうあるもの」の状態である。さらに、物語上、実は東京も滅んでいない。言い換えれば、世界はまったく終わっていない。ひなの命だけが、晴れを願いすぎたことによって一方的に終わってしまったのだ。

 

ストーリーの流れをもう一度、おおまかに整理しておくと、次のようになる。
家出少年ほだかが異世界東京の日常に迷い込む→晴れ女ひなが雨を止ませ、その反動のように雨が降る。ほだかは少しずつ、「日常の中の非日常の世界」を目撃するようになる→拳銃をぶっ放したほだかがポリ公に追われ、ひなの体が透明になる。完全な非日常タイムに突入する→ひな、逝く→ほだか、走る(24時間テレビのランナーのように、応援されながら)→鳥居の向こうの「神的世界」から、ひなを連れ戻す→日常に戻る→世界は平凡な日常だけど、「あの体験をしたぼくら二人にとっては、世界の形は決定的に変わってしまったんだ!」(他の人には世界は「あるがまま、そうあるもの」として見えてるのに)

 

さて、非日常的な体験をしてしまうと、日常そのものが大きく変わってしまうことはよくあることである。例えば、ぼくは去年の12月にグアム旅行にいってきたが、グアムという異世界を体験すると、しばらく東京での生活というのが寧ろ「異常な体験」に思え、世界の形が変わってしまったように感じた。同じように、この「非日常を体験することで、日常の形が変わって見えること」というのは、映画のネタとして実に頻繁に扱われるモチーフである。ペットたちが飼い主の留守中に大冒険をして、日常生活に戻ってくる『ペット』などは、まさにその典型だと考えて欲しい。つまり、ここでぼくが言いたいのは、新海誠監督の最新作『天気の子』はもはや「セカイ系」から遠く離れ、むしろ一般的なエンタメ映画へと着地した、ということである。

 

今まで見てきたように、『天気の子』は定義上、「セカイ系」と呼べなくなった。そこには単純なヒロインの命の危機と、それを乗り越えた男女の恋愛があるだけであった。しかし実際には、『天気の子』は「セカイ系作品の真骨頂!」などと世間的にレビューされている。
ここでぼくが注目したいのは、「セカイ系でなくなったにもかかわらず、ぼくたちがこの『天気の子』をセカイ系だと思ってしまう」ことだ。新海誠はきっと、そこを狙ったはずだ。彼はシナリオを「セカイ系」から、ただのエンタメ映画に巧妙にズラして見せた。にもかかわらず、ぼくたちはそこにあたかも「ぼくと君」と「世界の終わり」が直結しているかのように錯覚してしまう。この作品は、きわめて綺麗な風景の映像とともに、まるで二人が世界の運命を握っているかのように、ぼくたちの認識が誤作動することを仕組んだのである。