ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

15歳天才高校生の崎山さんの音楽を聴きました

ゲス川谷さんやくるり岸田氏がネット上で「天才だ!」と賞賛してやまない、15歳の男子高校生崎山さん。ギターや歌声、作詞作曲の類まれな才能があると話題になっており、中学生時代の仲間とKIDS’Aなるバンドも組んでいる。噂によるとゲス川谷さんやくるり岸田氏は「プロデュースしたい」などと言っているとか。

 

彼のプレイや曲は実際youtubeにて無料で見れるので、個人の弾き語りとバンドでの演奏を見せてもらった。確かに、高校生にしては歌もギターもかなり上手ですごい、という意見は皆さんと一致している。高校生では通常まわりがコピーバンドにせっせと勤しむ中、自分で曲を書いてオリジナル曲をここまで歌いこなせるのは類まれなる才能である。

 

しかし、ぼくは彼が「天才」であると、特にマスメディアや人気のあるプロ的なミュージシャンがこぞって囃し立てるのには大反対だ。

なぜなら、彼の作る楽曲はまだ未完成だと言えるからだ。

 

こんなに若くてかっこよくて凄い高校生が出てきたのに、いきなり腰を折るとはどういうことか。妬み嫉みでついに気でも狂ったのか、と皆さんの声が聞こえてきそうだ。だがはっきり言おう。彼はプロが両手放しで絶賛する「類まれなる天才」なはずなのに、じゃあギターのコードワークや曲の「このどこかで聴いたことある感」は一体何なのだろう?もし彼の作曲レベルが天才であるなら、その曲はまったく聴いたことのないものに感じるはずである。
しかし実際のところこういったギターの弾き方、コードの捉え方は2010年以降発展したひとつのスタイルであり、基本的には例えば某レコード系のアルバムを数枚買えば聴くことができるものだ。
彼の楽曲について、さらにもう少しつめて言うと、コードワークに未熟さがある。テンションノートを多く使う割にはダイアトニックのループ進行がほとんどであり、これは端的に言うと、音楽理論を体系的に駆使することができていない某レコード系アーティストの課題を未解決のまま残している。
つまり、その課題は「そういうジャンルだから、仕方ない」とも言え、彼のせいではなく、そのジャンルを構築した先人たちのせいなのである。逆に考えてみると、彼は「ひとつのジャンルの域を出ていない」ということに他ならない。

最終的にぼくが見たところ、天才というよりは「要領よく技能を修得できる、模倣の達人」というのが最も正確な表現なのではないか。

 

さて、ここでぼくの懸念を表明しておきたい。おそらく―というか間違いなく―ここで全マスメディアやアーティスト気取りのモノたちがこぞって「天才だ!」と言って囃し立てたとしたら、彼はその成長をやめてしまうだろう。課題を残したままプロミュージシャンとしてデビューし、お金を稼ぐということは、「なんだ、これでいいのか」と思うに違いないからである。もしかしたら彼は状況に流されず、研鑽と成長を続けられる稀有な存在かもしれない。しかし、バンドKIDS’Aはどうだろうか?バンドの成長は絶対に止まる。これは断言できる。そもそも、バンドとはそういうものだからだ。


ゲス川谷さんやくるり岸田氏は、こうなることを考えて発言できているのだろうか?まがりなりにもプロのミュージシャンなのだから、崎山さんの曲が「既存技術の流用」であることを知らなかったはずはない。にもかかわらず、彼をわざわざネットを使って賞賛するのは、彼を「投機対象」として見ているからに他ならない。あまつさえ「プロデュースしたい」などと発言することは、15歳男子をダシにしてまさに「投機的投資」をしようとしているゲスいやつらだと言わざるをえないではないか。


最近、友人のライブを見に行ってつくづく感じたのは、ミュージシャンにとって重要なのは「挫折の経験」である。残念ながら、ぼくたちは挫折をすることでしか、その演奏、その楽曲に「深み」を与えることができない。いまの時代は挫折を知らずに、最短距離でデビューし、ゴールへたどり着くことが最もよいとされてしまっている。だが、ことバンドに関しては全くそれが当てはまらない。バンドの音楽に説得力を与えてくれるのは、唯一その「深み」だけであり、最短距離でゴールしてしまうことは、音楽から深みを失うことと同義である。
そう感じさせてくれた素晴らしいライブだった。

決意表明みたいなもの

ぼくは基本的に、音楽とは「何かについての表現」であるとずっと思ってきたし、その気持ちはこれからも変わらないだろう。それは美術作品や絵画と同じように、論理的な言葉だけでは伝えることができない何かを、端的に表現するものである。

 

しかし、2000年代以降において日本の音楽が辿ってきた道は、音楽が「何かについての表現」であることを徹底的に否定し、無意味なものにしていく過程だったと言わざるを得ない。音楽は、むしろ「何かのためのもの」となった。

それは疲れた自分を癒してくれるヒーリングものや、つらい現実を忘れさせてくれる「陶酔ー現実忘却系」、そして元気がないときに力をくれる「スタミナソング」に代表されるだろう。ここに挙げたように、何かの役に立たなくてはそれは音楽としての意味がないとされ、単純な「表現」は資本の論理によってはじかれてしまった。

 

もうひとつ、傾きかけた日本社会が抱える「エセ資本の論理」が、音楽界をいよいよ終わらせてしまったことがある。それは、ミュージシャンたちが、【音楽で成功すること=「まわりを出し抜く強い個人」が、手段を選ばずひとり勝ちすること】という愚かな幻想に囚われてしまったことだ。「勝つ」とは何に勝つのか?それは、承認(売れる、集客できる)を巡って展開される終わりなき欲望のゲームに、である。そのゲームは本来であれば、ゲームの勝者こそが強いという「強者弱者」を決めるゲームのはずだった。しかしエセ資本の論理によって、「強者の音楽こそ芸術的にすぐれた作品である」という「ラベルの貼りかえ」が起こってしまった。

 

基本的に、いわゆるメジャーシーンに近いアーティストになるにつれて、この傾向は緩和されるどころかむしろ強まっていくことが、いろいろな人との付き合いで実感されてしまった。人気のあるバンドほど「周囲を出し抜こうと」しているし、音楽は「何かについての表現」ではなく、陳腐化された具体的な目的をもった消費財、と考えている。余裕があるのだから、その逆になればいいのに…といつも思うのだが、そういうわけにはいかない。これは「終わりなき欲望のゲーム」だから、エスカレートし続けるしかない運命にあるのである。今日本で、音楽を表現できて周囲と喜びを分かち合うことができているのは、いわゆる「ビッグネーム」に限られている。

 

ぼくは意識的に、ここ数年、そういった「出し抜き厨」「承認ゲーム厨」とは距離を置いてきたし、やはり音楽は「何かについての表現」だと思って信じてやっている。あらためてこうして文章にするのは、一種の決意表明みたいなもので特に意味はないのだが、少なくともぼくは大切な仲間たちとともに、音楽をする喜びを分かち合っていきたいし、分かち合い派に属しているという自分の立場をちゃんとはっきりしておくためである。

シェイプ・オブ・ヲーターをみました

―以下の内容はネタバレならぬモロバレを含みますので、映画をまだ見てないけど興味のある方はそっとページを閉じてください―


アカデミー賞をはじめとして、各地で賞を総ナメ状態にしている映画「シェイプ・オブ・ヲーター」を見ました。とても面白かったです。
全体的には60年代の「おれたちが最高だったオールドアメリカだぜ!」の雰囲気にどっぷり浸かっているものだったのですが、ぼくはその「オールドアメリカ」を全く知らないので、すこし置いていかれてる感はありました。たぶん、ぼくらの親世代とか、とにかく当時を知る人たち&現地のメリケンたちは懐古厨回路を刺激され、きっと大喜びだったのではないかな。もしかすると、デルトロ監督も当時のことは知らないあるいは覚えていなくて、脳内でつくりあげた「あの頃ヨカッター」を具現化しているだけかもしれない。

 

―この映画のふれこみは、とにかく「純愛」である。メディアをみるたび目撃するのは、人生に一度の大恋愛、究極の愛、究極のファンタジー・ロマンス…とかいう煽り文句たちだ。もともと内容が徹底的にファンタジックであるから異論をはさむべきでないかもしれないが、とりあえずそういうことになっている。


『人間の女性と、アマゾンの秘境で神としてあがめられてきた不思議な生きものである「彼」……。種族を超えた者同士が魂を通わせ、やがてかけがえのない存在として深い愛ときずなを築いていく…』


主人公イライザは、幼少期の傷から、声を出すことができない。一方、彼のほうは人ならぬ半魚人だ。ぼくがこの物語においていちばん切なく思ったことは、こうである。「声の出せない少女」と「半魚人」という超設定、大きく欠落したものと人ならざるものとの間にしか、もはや絶対的な関係―「純愛」は存在しえぬ。いつのまにかこの世界がそういう時代になったということはなんとセツナイ…。


声が出せないというのは、いわば「不可能を背負い込んだ存在」である。半魚人はまさに存在そのものが「不可能な存在」だ。そして、人と半魚人が結ばれることも本来「不可能なこと」。この幾重にも折り重なった「不可能性を可能にすること」こそが絶対的な純愛である、と描かれる。
実は、「不可能性が可能になって絶対純愛」のモチーフそれ自体は、すでに日本の既知のアニメーションの中にあふれかえっている。例を挙げるまでもないが、その中でも「男女入れ替わりのすえタイムリープして現実を塗り替え系」の『君の名は。』は記憶に新しいだろう。


ちなみに、ぼくはこの二人が永遠に結ばれるということは絶対あり得ないと思っていた。それは比喩的に、二人が死ぬことで「死後結ばれる」というモチーフを使う以外ないだろう、と。だからラスト直前までは、悲しいストーリーながらも「うんうん、でもこうなるしかないよなあ…」と、もうひとりの自分がぼくに語りかけ続けた。ストリックランドのあの銃で撃たれたシーンなんかはまさに、ああああ!でも、ああ、やっぱりな…と思ったものだった。
ところが、である。このあと、なんと彼は死んでいなかったのである。そして、半魚人の神通力によってイライザは水中で美しくよみがえるのだ。 (おそらく、このタイミングでエラ呼吸てきなものも会得しているかもしれない) ラスト、二人は永遠に結ばれることが暗示される…まさに不可能な存在の不可能が不可能な神通力によってパァァ…!と可能になった瞬間である。


全米で、全世界でこのラストが高く評価されていることにぼくはのけぞりかえった。なぜなら、この「不可能性が可能になる純愛物語」の想像力こそは、日本のアニメの世界で日々消費されている「陳腐なモチーフ」だからだ。「不可能性の可能化→純愛」に感動し、おおげさに共感するのは日本人だけではなかった。むしろ、アメリカやヨーロッパという先進国において、観客審査員ともども、共通してこの価値観がウケていることにぼくは正直おどろいてしまったのだ。

と、同時に繰り返しになるが、純愛それ自体がすでに不可能なことであり、不可能っていうのがもはや全世界的に共通認識されていて、だからこそファンタジーの中にしか存在しない…という時代に生きてることを強く実感させられてしまった。それは実にセツナイことではないか。

 

しかしフォローするわけではないが、デルトロ監督のアクションシーンはやっぱりよかった。脱出シーンのスパイ映画並みのスピード感とか、緑が全体に散りばめられたギミックとか、絶妙なグロ描写とか、そういうのは「テクニック」として、とても素晴らしかった。
あと、このころって本当にアメリカの敵がソ連だったんだね。いまでは一応ロシアも仮想敵だけど、ロシア弱くなりすぎてアメリカも相手にしてないし、なんというかそのあたりの国際情勢が妙に新鮮に感じたのだった。