ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

参照項の不在

アメリカンミュージックアワードという番組を見たことがあるだろうか?年に一度、アメリカでもっとも活躍したミュージシャンたちが一堂に会し、パフォーマンスをしながら表彰を受け取るイベントである。これはNHKが字幕をつけて邦訳しているし、その気になればアーカイブでも見られると思う。

 

その番組の昨年度のものを見たときに感じたのだが、アメリカは現在、ほぼすべてがラップ音楽か、単純なコードを繰り返すループ音楽の二択である。そこにバンドはほとんど存在しないし、およそあのジャズを生んだ国とは思えないラインナップである。


日本よりもはるかに過激な形で資本主義=音楽の形式を推し進めたアメリカ。それは具体的には、売れれば正義、集客できれば正義ということ。お金を生む音楽こそが芸術的価値を持ち、つまり芸術的価値が人々をひきつけ、お金を生む。証明終わり。はい論破。みたいなことをここ20年くらいやってきたアメリカ。そんなアメリカの音楽は、顕著な伸び悩みを見せている。
誤解のないように付け加えておくが、ぼくはラップやループ音楽が低俗であると言っているわけではない。それしか選択肢がない、というのが問題なのだ。

 

日本のミュージックシーンはつねに、困ったときにはアメリカを参照してきた。


歌謡フォークが伸び悩んだ際にはマイケルジャクソンやプリンス、マドンナを輸入し、バブル期の大衆音楽を牽引した。ボウイが解散し、バンドブームが終わろうとすると、メタリカなどのヘヴィメタルを取り入れ、延命し、のちのヴィジュアル系の起源エックスとなる。
上述のバブル期ポップスに可能性がないとわかるや否や、ポップミュージックをシンプルに捉えなおした小室哲哉が、クラブミュージックやトランスをJポップに発展させた。
TKのアイデアの枯渇や、ヴィジュアル系が偽物たちの世界観に駆逐されてしまうと、そのタイミングでR&B、ディーバと呼ばれる文化をいちはやく取り入れる。マライヤキャリービヨンセにはじまるあのR&Bシンガーの世界観を、宇多田ヒカルを頂点とした歌姫カルチャーで再現したのだ。
歌姫の次は男の出番、つまりそれはラップだ!と言わんばかりに、嵐が櫻井くんをラッパーに据えた。そして数限りないアーティストがうざい恋愛ラップでしつこいくらいにリスペクトし続けた。Aメロはラップ→サビはせつないメロを合唱、の流れがこのとき完全に出来上がる。

 

しかし、である。明らかに日本の音楽が低迷している中で、日本の音楽業界人は次なる参照項を見失ってしまっている。それは、アメリカでヒットする音楽に、日本が参考とすべき金の井戸が枯渇してしまったというべきだろう。アメリカ音楽こそ、まさに低迷し、急速にその影響力を低下させているからだ。
(一部では、その突き詰められたラップにこそ輸入価値があるということで、今の若者たちはラップでシーンを作ろうとしている。しかし、残念ながらこの種のものは直輸入してもダメなのだ。日本風に独自の取り入れと変容を遂げねばならないのだが、それが難しいらしく、いまのところは未変化体にとどまっているように見える。)


アメリカスタイルはここ数年、つねに売れること稼げることこそが目的であり、昔は順調であったから、日本の音楽スタイルも完全にそれを追随してきた。しかしながら、その資本主義=音楽に限界が見られたとき、いま日本はどうすべきなのか。このまま共に沈んでいくのか。


ここに問われているのは従来型の「資本主義=音楽」ビジネスとしての成功モデルを考えることではない。芸術のスタイルが次のフェイズに移行するモデルを構想すること。つまり思想―おおげさに言えば哲学が問われていると言っても過言ではないと思う。