ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

幽霊に憑かれた音楽

ぼくはここ数年、バンドや楽器をやるときは必ずピアノを弾いていた。ドラムに手を触れる機会はほとんどなく、このままもう一生やらずに生涯を終えるのだろうと思っていたので、突然にgroovynameで篠田さんに誘われることになって正直驚いている。篠田さんとは元々対バンもしていたし、シンセで一緒にバンドをやったこともある。つまり、彼の知る限りのぼくはピアニストとしてのほぼうさ、であった。ところが、彼は一度もぼくのドラムを聴いたことがないにもかかわらず、唐突にぼくをドラマーに指名してきたのだ。これは賭けやギャンブルにも似た危険な行為である。もはや蛮勇…英雄的行為としか言いようがない。しかし実際には、彼の賭けは正しい選択だった。篠田さんはギタリストでボーカリストだが、同時にピアノも弾くことができる。どうやら、そのような複数の楽器をプレイする人間をかぎわける、嗅覚のようなものを兼ね備えているらしいことが今回明らかとなった。


と、前置きの導入はさておき、ピアノを弾いているときのぼくは、コード(和音)とメロディ、そして楽曲(作曲)のことしか考えてなかったと言える。正直に言うと、ほんとうにリズムのことなどはほとんど頭になかったとここに白状する。しかしあらためてドラムという楽器を演奏してみると、そこにはコードもメロディもない、という単純な事実がたちどころに理解される。だから、ドラムという位置に座った時点で、ぼくは否応なく「リズム」や「グルーヴ」のことに向きあわざるをえなくなった。


そこであらためて問えば、グルーヴとはそもそも何なのであろうか?この言葉はひどくあいまいな意味の単語である。「彼のプレイはグルーヴィだね」というとき、それはメトロノームに対しリズムが正確であるとか、他の楽器の演奏とタイム感が合っているとか、必ずしも個別具体的なことを意味しているわけではない。メトロノームの位置に対して著しくずれていてもグルーヴすることだってあるし、伴奏楽器がなくても単体でグルーヴ感を生み出すこともあるだろう。思えば、リズム感とは本来、シビアなタイム感覚を要求されるきわめて高度な技術である。そう教えられてきたし、実際に演奏してみて、いつもそのように痛感している。しかしぼくたちはそのシビアさとは全くうらはらに、「グルーヴ」というひどくあいまいな表現によって、リズムの価値を評価していることになっている。
ぼくたちは例えば、ジミヘンドリクスやジェームスブラウン、ジャクソン5を聴くとグルーヴを感じる。同じように、ライブハウスで卓越した技術のミュージシャンの演奏を聴いてもグルーヴを感じるだろう。だんだんと裾野を広げてゆけば、生のバンド演奏はジャンルを問わず、おおむねそのように感じると考えてよい。HipHopは…というと、海外はともかく国内アーティストは微妙なラインである。だがしかし、ドラムマシンによる打ち込み音源で構成されたアニメソングの主題歌や、カラオケをバックに大部分を口パク演奏するアイドル歌手たちの曲を聴いて、グルーヴを感じるという人はおそらくいまい。


歴史的に言えば、18世紀から19世紀のクラシック音楽におけるオーケストラには、グルーヴと呼ばれるものはなかった。それは単にリズムと呼ばれていただけである。時代が下り、1920年代からアメリカで沸き起こったジャズムーヴメントでは、それは「スウィング」という別の呼称で呼ばれた。著名なジャズピアニストであるオスカーピーターソンは、演奏する際に「スウィングしなけりゃ意味ないじゃん」ということを繰り返し言っていたらしい。ここで彼が述べていた「スウィング」の使い方は、現代のぼくらの感覚でいう「グルーヴ」とほとんど一致している。
ぼくが大学生のときに見た、スティーブジョーダンという伝説的なドラマーの教則ビデオがある。そのビデオの中で、彼は繰り返し何度も「『グルーヴ』とは『ポケット』のことなのさ」と述べていた。そのビデオはさらに、単純なドラムの指導だけにとどまらず、ジョーダン氏の先輩にあたる伝説的なドラマーやベーシストにも同様のインタビューを実施していた。だが驚くべきことに、ほとんどのミュージシャンがグルーヴをポケットだと表現していたのだ。


「グルーヴ」は「ポケット」…。つまり、楽曲の流れの中にはリズムの穴のようなものがいくつかあいており、完全で正しい「ジャストタイミング」の演奏を行えば、その「ポケット」にすっぽりハマる、という意味である。なるほど、たしかにそれは理論上まちがっていない気がする。ぼくたちは未熟であるが故に、そのポケットの位置を見つけることができない。グルーヴするとは、血のにじむような訓練の積み重ねによって、その完全に正確な位置に到達し、至上のリズムを生み出すことなのである。


とはいえ、この説は実は、その後の科学技術の発展によっておおきく覆されることとなる。どういうことか?

先の例にも挙げたことだが、ぼくたちは1980年代から、電子音の組み合わせを時系列順にプログラムし、一定の速度で鳴らすことのできる装置を手に入れた。当初はこれを「リズムマシン」や「ドラムマシン」などと呼んでおり、その装置にあらかじめ音の順序を入力していく作業を「打ち込み」と呼ぶようになった。当初は簡単な16小節くらいのループしか構成できなかったが、次第に大掛かりな「ミュージック・シーケンサー」などを使用することで、徐々に本物のドラムを代用しうるレベルにまで達していった。現在の「ドラムマシン」及び「打ち込み」は、パソコンと高レベルな波形編集ソフトを組み合わせることにより、ドラムを鳴らした音とほとんど見分けがつかないような音質で、あたかもスタジオで生ドラムを叩いたかのようなプレイが、ソフトウェア上でいとも簡単に再現できるようになっている。
つまり、ひと昔前には人間の身体上の限界によって再現できなかった「完全で正しいタイミングの演奏」=「ポケット」は、科学技術の発展によって容易に達成されうる状況となったのである。さて、これで準備は整った。ぼくたちは、ポケットの位置を探らずとも、電子的な計算により、理論的に間違いのない場所に音を入れこむことができるようになった。あとはその「ポケット」に高品質の音を入れるだけで、世界はグルーヴに富んだ音楽で満ち溢れるユートピアが来る…少なくともそうなるはずだった。
しかし、現実に訪れた世界はまったく逆の世界だった。テレビではカラオケをバックにアイドル歌手が口パクを歌い、3人組のチンピラみたいな男たちが安っぽい恋愛をテーマに応援ソングと称した謎の曲を歌う。スーパーマーケットの買い物のバックには、ボーカルメロディにも電子音をあてたチープな打ち込み音楽が流れる。いまぼくらが生きているのは、ありとあらゆる場所で音楽がグルーヴを失ったディストピアに他ならない。

「グルーヴ」は言語化できない。そして、高度な計算処理能力を備えた装置によっても再現できない。それは、目で見、手に触れることができる経験的な「この世界」を、こえるなにかである。そのように理解すると、グルーヴのことを考えることは「慰霊」や「霊魂」のことを考えることに似ている。


いささか飛躍しすぎただろうか。本稿ももう少しで終わるので、「は?霊魂?」と思われた読者も、もう少し付き合ってほしい。
霊魂などは存在しない…いまのぼくたちは、少なくともそう考えている。ところが、アニメーションスタジオの凄惨な放火殺人のことや、台風19号の甚大な被害、そして親しい身内が亡くなったときなどには、ぼくたちはどうしても「慰霊」や「追悼」のことを考えざるを得なくなる。そのような時、ぼくらはほんとうには存在しない霊魂…「この世界をこえるなにか」について夢想し、それを実体化したいという欲望に駆られてしまう。
同じように、音楽をただ消費する一般の聴取者は、リズムについて深く考えることはしない。むしろグルーヴのことなどはこの世に存在しない面倒なものだと思っていることだろう。しかし、音楽を愛する人がアーティストの楽曲を聴くときや、ミュージシャンがライブで実際に演奏をするとき、ぼくたちは可視化されえぬグルーヴについて考えざるを得ない。このように考えると、演奏にグルーヴを与えるとは、「この世界をこえるなにか」を、演奏者の手によって実体化しようとする行為だと言えないだろうか。


そもそも人間は、本能的に「この世界をこえるなにか」を実体化してしまう生き物なのである。だから、それは容易に神秘化してしまうし、原理上、オカルトによる汚染を免れえない。実は、これこそがもっとも大きな問題であり罠なのだ。
ぼくは脳科学者の茂木健一郎が、ニコニコ動画の生放送番組で「おれは音楽だと、セカオワが好き!」「やっぱり、グルーヴなんだよね!」と語っていたのを見たことがある。言うまでもないことだが、セカオワのメンバーにはドラマーがいない。リズムに使用しているのは打ち込みのリズムトラックである。いくら「知ったかぶり」とはいえ、どうして茂木氏がこのような見当違いの発言をしてしまったのか…、ぼくは今なら理解できる。茂木氏はセカオワの音楽をきちんと鑑賞する前に、その神秘化されたイメージを先に受け取ってしまった。だから、彼らの音楽にオカルティックな幻想を見てしまい、それを「この世界をこえるなにか」=「グルーヴ」と呼んだのである。

 

実は、音楽にはリズムもグルーヴもなく、ただそこに規則的な音の配列がある…と考えたほうが正しい場合もある。事実、いま世界はそうなっている。わが国日本に溢れる音楽の大部分は、リズムトラックから生ドラムを抜き去り、「打ち込み」を使用している。そのほうがドラムをわざわざスタジオで録音するよりも、ドラマーに払う人件費もスタジオの使用料もかからないので、経済的にきわめて合理的だからだ。低コストで高付加価値の製品がリリースできることでお金が儲かり、儲かったお金で人々は幸せになれる。グルーヴのような「あいまいなもの」を考えないほうが、世界は遥かにうまくまわるのである。


音楽にグルーヴがないほうが、人々は幸せになれる。それは正しい命題だ。しかし、そのように割り切って納得できないのが、人間であり、ぼくたち音楽を愛する者たちなのだ。ぼくはこれからも、そのような「世界をこえるなにか」について常に考え続けていきたいし、それこそがぼくたちミュージシャンの存在意義だと思っている。