ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

固有名の更新されなさ

安室奈美恵が引退するにもかかわらず、それをきっかけとしたDVDやBDの類が売れに売れている。音楽関係がすっかり売れなくなったこのご時勢にミリオンセラーを記録しているというのだから、勝ち逃げイチぬけパターンの最高の形であるといっても過言ではない。


しかし同時にぼくが違和感を覚えたのは、安室奈美恵という固有名である。安室奈美恵はぼくが小学生のとき、すでにスーパーモンキーズとしてデビューしていた。その後、小室プロデュース時代を経て、結婚出産を機に落ち目の小室から脱出する。「エイベックス―マイルドヤンキー」的セールスがうまくはまり、単なるポップシンガーから不動のカリスマ歌姫へと価値観の変更を行うことができ、現在に至る。実に20年以上、あまりにも昔に世に出た固有名が現在も生きつづけているのである。

 

ぼくが記憶している限り、80年代後半から90年代前半までの固有名は更新されつづけるのが当たり前だった。たとえばボウイは1988年に解散していたが、翌年89年にはX JAPANがデビューし、ボウイは新しい音楽ではなくなっていた。
そうかと思えばオリコンチャートはミスチルスピッツを1位に押し上げていく。加えて、あんなゴリゴリした音楽は一般の人には合わないのだといわんばかりに、耳障りの軽い小室ミュージックが全盛期を迎える。へヴィメタなる単語は既に死語と化し、誰も思い出さなくなっていた。
ほどなくすると、軽くなりすぎた音楽へのバンドサウンドの揺り戻しとして、GLAYラルクアンシェル、ジュディアンドマリがあらわれる。後にも先にも、「バンド」という形態がここまで注目された時代はほかになかったであろう。既にtrf的なダンスポップスはダサくなりつつあった。
残念ながら、栄光はあっという間に過ぎ去るもの。宇多田ヒカルがデビューし、倉木麻衣MISIA小柳ゆきが登場すると、バンドというスタイルそのものが色あせはじめ、もはや古くなりつつあった。…

 

いま挙げたアーティストの変遷は、それぞれだいたい2年くらいのスパンで書いてある。つまり80年代後半から90年代は、その固有名が2年くらいの期間で更新されていくのが普通のことだったのだ。しかし2000年から2010年代になると、むしろ固有名は更新されなくなってくる。
ぼくはほとんど記憶がないけど、例えばおニャン子クラブは1985-1987年の2年ちょっとしか活動していない。しかしAKBはいま10年以上も活動していることになる。90年代が青春ど真ん中だったぼくらは、固有名の2年スパンでの更新があまりにも当然のことだと思ってしまっていたし、固有名が更新されないのは「わしも歳をとったからなあ…」というような、加齢による主観的な理由かと思っていたが、おにゃん子とAKBの比較からも明らかなように、どうやらその感覚は間違っているらしい。あくまでも客観的事実として、同じアーティストだけが長い間反復して支持されていることが明らかになってくる。

 

これは一体なにを表しているのだろう?90年代は一貫して、消費者の動向が新しい価値観こそが最先端でオシャレであるという明確な意識に基づいていたことがわかるだろう。GLAYのファンだった同級生のミーハー男子が、2年もしないうちにシャズナのメルティラブにハマっていたことに代表されるように、2年も前の音楽やアーティスト、バンドはもう古くてダサかった。ところが、2000年以降、消費者は急激に保守化し、アーティストに安定、落ち着き、癒し、変わらなさを求めるようになったのだ。ミスチルやサザンなどのビッグネームが異様ともいえる底堅いファン需要によって、ものすごい勢いでエスタブリッシュメントになるのもこの頃である。

 

そもそも、消費者の欲望とはそういうものかもしれない。同じものの反復、変わらなさこそが堅い需要を生みだし、産業を支えていく。本来、新しい音楽的価値観などは不要なものなのだ。


安室奈美恵という固有名がいまも更新されず売れているのも、基本的には消費者の保守的な欲望をダイレクトに表しているだろう。安室奈美恵は現在40歳だが、40歳でもその美貌と美しいスタイルを維持していることが人気の一番の秘訣なのだという。つまり、安室奈美恵はアーティストとしての新規性、カリスマなどがきっかけとして売れているわけではない。安心、安定を求める消費者に、その「変わらなさ」こそが評価されていたのだと言える。

ジュラシックワールド2 炎の王国をみました

ジュラシックワールド』とは、20年以上も前の作品『ジュラシックパーク』から派生する、あらたな恐竜アクション―パニック映画である。『ジュラシックパーク』については、もはや説明は不要だろう。いや、若い読者はひょっとしたら逆に知らないかもしれない。しかし、そもそも若い人はこんなところに来ないか。スティーブン・スピルバーグ監督が、当時最先端だったCG技術を駆使して、恐竜を現代に蘇らせたという伝説的なハリウッド映画である。ストーリー自体も、遺伝子工学を用いた生物学の技術によって現代に蘇った恐竜が脱走、繁殖などして襲い掛かってくる。そこから主人公たちが逃げ惑うアクション―パニックものになっており、複雑なメッセージよりもむしろ、画面の中でリアルな恐竜が動くそのさまを見ることが目的だったといっても過言でなかった。


ジュラシックワールド』の1作目は3年前に公開されているが、作品の内容、メッセージ性はほとんど『ジュラシックパーク』と同じである。科学者や管理する人間たちの驕りから、恐竜が檻から脱走し、パークをパニックに陥れる。『パーク』との違いは、主人公が理科系研究者-学者同士のカップルではなくなり、若い美人経営者と海兵隊出身のバンカラ野郎のコンビになったところである。このあたりも時代性をはっきり表しているのだが、当時は大学の学者、研究者であることがステータスでありえた。20年前、大学の研究は夢があり、研究はかっこよかった。なにより、研究成果はぼくらの社会を豊かにするものに直結すると信じて疑われなかった時代である。「末は学者か先生か…」これは頭がいい子に対して親や親戚が言った言葉である。だが今はそんな幻想ははっきり失われている。学者は有期雇用で給料も低い。いつまでも研究生活などしていられないから、好きなことをあきらめて就職しなさいと周りから諌められる日々。先生はモンスターペアレンツのクレームに追われ、ブラック企業並みのサービス残業をする日々だ。それよりも、若くして投資に成功したり、ファンドを経営したり、あるいは起業するビジネスパーソンがカッコいい。もしくは顔がよくて筋肉ムキムキ、たとえ恐竜が来ても実力で排除できるイケメン―ほとんどギリシア時代の英雄のような―がカッコいい時代となったことを象徴している。「カネ」か「力」か、の二元論…まさに現代社会をそのまま投影する主人公像だといってもいいだろう。

 

話が長くなりすぎた。『ジュラシックワールド2 炎の王国』は、その島から逃げ出したあとの話だ。恐竜をモノだとしてしか見ていなかったヒロインのクレアが突如恐竜愛に目覚め、「恐竜を島から助けてあげなくちゃ…」というところから唐突に幕を開ける。
正直言って波乱すぎる幕開けだろう。監督は、公開前のインタビューなどで「アニマルライツなどのコンセプトも盛り込んだダークな作品」だと語っていたようだが、これはその領域を逸脱してぶっ飛びすぎていると感じざるを得なかった。しかし、実はその問題意識はかなり的を得ている。的を得ているとはつまり、現代社会の問題を鋭くえぐり出している。これはアニマルライツを題材にすることで、人間の感情が誤作動をひきおこすまさにその瞬間を描ききった作品になっているのだ。


この作品には3回ほど印象的なシーンがある。1回目は、島から逃げ遅れた草食恐竜が悲しそうに鳴くシーン。2回目は、ブルーというラプトルの恐竜が人間に対し共感能力を持ち、檻から出たあと悪者に襲い掛かるシーン。最後に、小さい子が我慢できなくなり、屋敷の恐竜をすべて外に脱走させるシーンである。


1回目のシーンにおいて、観客は哺乳動物ですらない、空想上の恐竜をじつに愛おしく感じる。それは人間ではないし、犬やネコでもない。その上、隕石の落下によって絶滅したと言われている恐竜が、同じように自然界の摂理である火山の噴火によって滅びていくのは単純に歴史の反復である。ぼくらは隕石絶滅のエピソードを1万回聞いても、おそらく恐竜には共感しなかったはずである。しかし、にもかかわらず、目の前に火山の噴火によって悲しそうに鳴く恐竜を見ると哀れみを感じ、かわいそうだなあ、乗せてあげたらよかったのに…と思ってしまうのだ。人間の共感ーかわいそうだと思う哀れみの感情は種を越え、哺乳動物であるかどうかの境界も越えて、空想上の生き物にまで働いてしまう。これは端的に、人間の感情が誤作動を起こしているといってよい。
そして、非常に重要なのが2回目と最後のシーン…恐竜が脱走するシーンである。恐竜が脱走するシーンはとてもカタルシスがあり、視聴者は見ていてスカッとするようになっている。抑圧されていた恐竜は檻から出たあと、どちらも悪役側の手下や悪の権化のやつを殺戮して出て行く。きっと脱走後もたくさんの無関係な人間を殺戮することは間違いないが、細かいことはとにかく置いといてすっきり。そういう作りだ。


ぼくはこのシーンに異様な違和感を覚えた。きっとぼくだけではないだろう。これはつまり、「人間だが立場の違う他者」よりも「人間から生物学的、時間的に果てしなく遠い他者 (恐竜) 」を愛する話なのである。


ぼくらは身近な家族を愛することができる。身近な友人たちを愛し共感することもできる。しかし、そこから先の他者を愛する想像力を持たない。脱走してしまった恐竜によってサーフィン中に食い殺されてしまう他者を、お金に困窮して仕方なく悪の組織ではたらくガードマンの仕事をする他者を愛することができないのだ。そのかわり、絶対共感しあうことができない、世界と時空を超越した空想上の動物を愛することはできる。

ぼくらがいま生きている時代とは、人が「自分とその近く」と「世界の終わり」しか考えることができないのであり、「自分」と「世界の終わり」をつなぐ中間の「世界」について想像力をもちえない時代なのである。(以前、同じ問題意識で音楽に関するブログを書いたので、こちらも参照いただきたい→https://ameblo.jp/hobo-usa/entry-12302235390.html

ぼくたちは自分の身近でまじめに生きている他者には共感することができず、しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。
ジュラシックワールド2 炎の王国』は、そういう時代にぼくらが生きているらしいということを見事に描ききったと言える。

Re:ゼロからはじめる…話

Re:ゼロからはじめる…云々というアニメが劇場版OVAで公開されるということで、大変盛り上がっています。ぼくも途中までは見ているので、ストーリーは楽しみだし、なによりイキオイがあるというのは素晴らしいことだと思う。

突然だが、このアニメは要は異世界転生モノのファンタジーである。おまけに主人公はオトコで異世界美少女とのたくさんのふれあいがある。この時点で見る人をかなり限定してしまうのだが…しかし基本的な着想はいい。おおまかに言うと、この主人公は異世界において一度死ぬと、ある「セーブポイント」的な時間と場所に強制的に戻され、最初からストーリーをやり直すことになる。何度もやり直した結果、死なせたくない人が死なないとか、そういうハッピーな結末を迎えたことで、「セーブポイント」が更新される。そういうつくりになっている。

この発想のどこが面白いのかと言うと、それは「ループもの」という要素を取り入れたことである。

異世界転生は本当にフィクションである。何でもありのフィクションだから、死んだらループのような設定だっていままであってもよかったはずだ。しかし、実際には「なんでもあり=主人公最強 (俺TUEEE) 」と解釈した書き手たちによる、異常なほどの能力をもった主人公がひたすら雑魚をひねりつぶすように駆逐するような作品で溢れてしまった。この作品ではそのような陳腐な潮流にあえて抗い、主人公を貧弱なオトコに設定し、簡単に死んでしまうようにすることで、「ループもの」の想像力を取り入れることに成功できた稀有な例なのだ。

実は、今から10年以上前、アニメゲームの世界は「ループ」に溢れていた。2005年頃に登場した「ひぐらしのなく頃に」はそのようなループ世界の金字塔のような作品である。この作品では夏祭りの前後に起きた殺人事件を起点として、同じ一定時間を永遠に繰り返しているが、登場人物のひとりだけがそれに気づいている。主人公がこの世界に介入することで、「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」物語が構築されていくのである。
「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーは、実は涼宮ハルヒの…云々でもモチーフにされていたほどだ。2011年には「シュタインズゲート」でも同様のモチーフは反復され、大ヒットを飛ばした。しかしシュタゲの成功を機にほどなく「ループもの」は下火となり、あまりアニメにおいて描かれることはなくなる。ちなみに、つい最近知ったのだが、「らせんの宿」という人気のあるフリーのホラーゲームも、まさにこの「終わりなきループに陥り、そこから脱け出す」ストーリーである。
このように2000年代中盤から後半はまさにループ天国ともいうべき、同じような想像力に満ちた時代が続いたわけだが、これらの作品には共通項がある。それはあくまでも「学園モノ」であったことだ。「ループもの」の想像力の源泉は「ときめきメモリアル」に代表されるようなギャルゲーに端を発している。ギャルゲーこそまさに同じループを永遠に繰り返し、選択肢を巧妙に操ることによって「正しい結末」を手繰り寄せるものだからである。そういったギャルゲーが学園モノであったがゆえに、後発のアニメまんがゲームにおける「ループもの」も、学園モノに偏っていた。

最初の話に戻ってぼくが感心したのは、「ループもの」の想像力をあえて学園から逸らし、一見何でもありの「異世界転生、剣と魔法」のファンタジー世界へとスライドさせ、その想像力とうまく結合させたことだ。こうすることで、実はすっかり業界内では地位の落ちていた「剣と魔法、ファンタジー」と「ループもの世界系」のどちらもまたその息を吹き返した。どちらにも思い入れがある者としては、喜ばしいことではないだろうか。

nhkの集金が来ました。

nhkの集金の方が我が家に来ました。と言っても、既にnhkは集金業務から撤退しており、残念ながら (?) 下請け会社の社員の方がお見えになりました。

 

基本的にぼくはテレビを持っていないので、受信料を払う法的義務は発生しない。今後はネットに繋がるパソコンを持ってるだけでも徴収される方向に法律が変わる可能性があるのだが、いまのところはテレビがなければ払わないということが認められる。

 

しかし、集金作業員の方はとにかく
「いやいや、払いたくないって気持ちはわかるんすけど…見てますよね?」
ワンセグ見れたりするものを持っていれば、払っていただかなくてはいけません」
「ここ、テレビは見てなくても、設置はあるんですから」
などと言って、お金を徴収しようとする。ちなみに、最後の「設置はある」と言って知識の乏しい人を騙し、契約を交わそうとするのは実に悪質だな…と感じたのだが、集金作業もラクな仕事ではないので黙って見過ごしてあげることにした。


そんなセコイことよりも、ぼくが今回、とても問題だなと思ったのは別のところにある。すなわちテレビに携わる人間たちが、ネット動画時代の訪れに全く適応できていないということである。


ネット動画とは、youtubeに始まりニコニコ動画などの動画配信プラットフォームを指す。こういったプラットフォームにある動画は生放送のものもあるが、基本はアーカイブ化された動画ファイルが中心だ。一部の特殊な会員制動画を除き、基本的には動画ごとに広告を採用しているので、視聴者は無料で動画を見ることができる。

ネット動画はきわめて優秀である。用事があれば途中で止めて出かけられるし、帰ってきたら録画などの面倒な手続きもなく途中から漏れなく見れる。それだけではない。つまらないなと思ったら早送りすれば冗長な部分をすっ飛ばせるし、聞き取れなかった部分や面白かった部分をワンクリックでふたたび再生することができるメディアなのだ。
こういう観点から見ると、テレビはクソメディアである。見たい内容の番組を選べず、現在進行形で放送しているコンテンツから視聴番組を選ぶことしかできない。早送りもできない。CMは長い。用事があったら録画するか、さもなければ一生見ることができない仕様だ。
ぼくは基本的に、こうした利便性から自宅にいる暇なときは延々とネット動画を見ている。同じような生活様式を営んでいる人はけっこうな数いるだろうし、これからも若い人を中心に増えていくのではないかと思っている。もはや、家に一台テレビがあり、暇なときにはテレビをつけて見る…という時代は終わりかけているということに気づかなくてはならない。


たとえばフジテレビは、80年代から「楽しくなければテレビじゃない!」を合言葉に、「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのキラーコンテンツを10年以上にわたり、立て続けにリリースしてきた。この動きは単にコンテンツの質が高かったということもあるが、基本的には日本人の経済事情が好転し、テレビが「高価でみんなで見るもの」から「一家に一台、個室で見るもの」へとシフトしたことに対応するものだ。つまり、テレビは面白い芸人さんを使ったワイワイガヤガヤなバラエティ番組を多数つくることによって、孤独な個人と直接つながるようになり、空前の高視聴率を獲得することが可能だったのだといえる。


しかし、程なくして、孤独な個人は携帯電話によって救済され始める。すぐにインターネットが普及し、状況は一変。「一人に一台、個室にパソコン」時代が到来する。インターネット元年から約20年、前述した「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」「めちゃめちゃイケてる」などのテレビ番組はすべて終了しており、伝説として語り継がれるだけの「歴史」に成り果てた。

もはや孤独な個人はテレビを見ない。ネット動画を垂れ流したり、ニコニコ生放送youtubeライブをみたりして余暇を過ごす生活が当たり前になった。結論的に、テレビは孤独な個人との関係を切断され、その役割をあっけなくネットに明け渡したのである。


さて、集金の人の話に戻ろう。nhkは、いいかげん「テレビはネットに役割を明け渡した」ことに向き合わなければならない。つまり、
「受信料払いたくないだけで、実際はテレビ見てますよね?」
が完全に間違った認識なのだ。なぜなら、もうぼくらはテレビを見ていないのだから。正しくは
「テレビは高コストをかけてネット動画よりも良質なコンテンツを制作していますので、どうか契約して買ってくださいお願いします」
である。この態度が営利企業として正しい作法であり、正確な認識であるということをわかっていただく必要があるだろう。

15歳天才高校生の崎山さんの音楽を聴きました

ゲス川谷さんやくるり岸田氏がネット上で「天才だ!」と賞賛してやまない、15歳の男子高校生崎山さん。ギターや歌声、作詞作曲の類まれな才能があると話題になっており、中学生時代の仲間とKIDS’Aなるバンドも組んでいる。噂によるとゲス川谷さんやくるり岸田氏は「プロデュースしたい」などと言っているとか。

 

彼のプレイや曲は実際youtubeにて無料で見れるので、個人の弾き語りとバンドでの演奏を見せてもらった。確かに、高校生にしては歌もギターもかなり上手ですごい、という意見は皆さんと一致している。高校生では通常まわりがコピーバンドにせっせと勤しむ中、自分で曲を書いてオリジナル曲をここまで歌いこなせるのは類まれなる才能である。

 

しかし、ぼくは彼が「天才」であると、特にマスメディアや人気のあるプロ的なミュージシャンがこぞって囃し立てるのには大反対だ。

なぜなら、彼の作る楽曲はまだ未完成だと言えるからだ。

 

こんなに若くてかっこよくて凄い高校生が出てきたのに、いきなり腰を折るとはどういうことか。妬み嫉みでついに気でも狂ったのか、と皆さんの声が聞こえてきそうだ。だがはっきり言おう。彼はプロが両手放しで絶賛する「類まれなる天才」なはずなのに、じゃあギターのコードワークや曲の「このどこかで聴いたことある感」は一体何なのだろう?もし彼の作曲レベルが天才であるなら、その曲はまったく聴いたことのないものに感じるはずである。
しかし実際のところこういったギターの弾き方、コードの捉え方は2010年以降発展したひとつのスタイルであり、基本的には例えば某レコード系のアルバムを数枚買えば聴くことができるものだ。
彼の楽曲について、さらにもう少しつめて言うと、コードワークに未熟さがある。テンションノートを多く使う割にはダイアトニックのループ進行がほとんどであり、これは端的に言うと、音楽理論を体系的に駆使することができていない某レコード系アーティストの課題を未解決のまま残している。
つまり、その課題は「そういうジャンルだから、仕方ない」とも言え、彼のせいではなく、そのジャンルを構築した先人たちのせいなのである。逆に考えてみると、彼は「ひとつのジャンルの域を出ていない」ということに他ならない。

最終的にぼくが見たところ、天才というよりは「要領よく技能を修得できる、模倣の達人」というのが最も正確な表現なのではないか。

 

さて、ここでぼくの懸念を表明しておきたい。おそらく―というか間違いなく―ここで全マスメディアやアーティスト気取りのモノたちがこぞって「天才だ!」と言って囃し立てたとしたら、彼はその成長をやめてしまうだろう。課題を残したままプロミュージシャンとしてデビューし、お金を稼ぐということは、「なんだ、これでいいのか」と思うに違いないからである。もしかしたら彼は状況に流されず、研鑽と成長を続けられる稀有な存在かもしれない。しかし、バンドKIDS’Aはどうだろうか?バンドの成長は絶対に止まる。これは断言できる。そもそも、バンドとはそういうものだからだ。


ゲス川谷さんやくるり岸田氏は、こうなることを考えて発言できているのだろうか?まがりなりにもプロのミュージシャンなのだから、崎山さんの曲が「既存技術の流用」であることを知らなかったはずはない。にもかかわらず、彼をわざわざネットを使って賞賛するのは、彼を「投機対象」として見ているからに他ならない。あまつさえ「プロデュースしたい」などと発言することは、15歳男子をダシにしてまさに「投機的投資」をしようとしているゲスいやつらだと言わざるをえないではないか。


最近、友人のライブを見に行ってつくづく感じたのは、ミュージシャンにとって重要なのは「挫折の経験」である。残念ながら、ぼくたちは挫折をすることでしか、その演奏、その楽曲に「深み」を与えることができない。いまの時代は挫折を知らずに、最短距離でデビューし、ゴールへたどり着くことが最もよいとされてしまっている。だが、ことバンドに関しては全くそれが当てはまらない。バンドの音楽に説得力を与えてくれるのは、唯一その「深み」だけであり、最短距離でゴールしてしまうことは、音楽から深みを失うことと同義である。
そう感じさせてくれた素晴らしいライブだった。