ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

アニメのゴジラ3部作を見たので、まったり投下していく日記

アニメ版ゴジラGODZILLA『怪獣惑星』、『決戦機動増殖都市』、そして『星を喰う者』をすべて見終えた。
本作品群はどれも劇場版であり、映画館で半年おきくらいのペースで上映された。1作目の『怪獣惑星』のあとはかなり引き込まれて次回作が気になる展開となり、最後までテンションを損なうことなく見続けることができた。できれば3部一挙上映のような機会があればまた見に行きたいくらいの、素晴らしい出来だったことを最初に断っておこう。

 

アニメにおいてゴジラをやろうとなったのは、昨今のシンゴジラに始まるゴジラブームが背景にある。このアニメを終えた後、さらにハリウッドでは同じようにキングギドラと闘うゴジラの実写映画が上映される予定だし、しばらくはこの「ジャパニーズ特撮の夢を蘇らせる。その象徴たるゴジラ」の熱はまだ止みそうにない。

 

1作目『怪獣惑星』は、最初、ゴジラの襲撃により人類が地球を離れ、何光年か移動して居住可能な惑星を探したのだが、食料や燃料など資源の枯渇にぶちあたる。結局ふたたび地球へと戻るのだが、長距離亜空間航行によって生じた時空の歪みによって二万年後の地球に降り立つ…というところから始まる。ここで降り立つのは地球であって、既に地球でない。故郷の惑星でありながら、未知の生命体がいるかもしれない惑星。そこに探査を目的として宇宙船から調査隊が降り立つのだ。

 

それにしても「植民船が人間を乗せ、居住可能な惑星を探索しながら、未知の生命体と邂逅する」…ぼくたちは、この設定を何度見たことだろう。マクロスでもそうだったし、リドリースコットのエイリアンでもそんな設定があった気がする。つまり、アニメで描かれるゴジラは極めてベーシックなSFからはじまるのである。
比較するなら、たとえばシンゴジラが描いた世界では、限りなく実感覚に近い日本人たちが意思決定に苦しみながらわちゃわちゃする。この路線をリアルな現実社会に突如怪物が現れ、人々に混乱をもたらすような「怪獣、パニック映画」とするならば、アニメ版ゴジラはそれとはまったく別路線と言えよう。近未来で退廃した人類たちの、文明が進んだゆえに持つ葛藤が織り成すSFの物語である。

 

さて、唐突に思われるかもしれないが、『怪獣惑星』は女子…いや、腐女子のための映画である。まず、この映画の「キャラクター」の項に行き、登場人物をチェックすると、女が1人しかいないことに気がつく。これはおかしい。11人中の1人…10%を下回るいびつな男女比だ。しかも、その貴重な女子キャラである「ユウコ」の設定がこれまたひどく薄い。「主人公ハルオの幼なじみ。以上!」みたいな、紙のようにペラペラな設定だ。まるっきり、この女子の内面にあえて触れるような骨太な物語を紡いでいく…という意志を感じない。
近年このようないびつな男女比でストーリーが進むアニメを例に挙げると、弱虫ペダル黒子のバスケ、…健全な少年向けアニメとは言いがたいものが多いのもポイントだろう。
加えて、起用している男性声優陣を紹介しよう。宮野 真守、櫻井 孝宏、杉田 智和、梶 裕貴小野 大輔、諏訪部 順一…この顔ぶれだけを見ると、もはや力の入れ方が普通のアニメでないのは一目瞭然だ。男性アイドルグループが歌って踊ってグループ内でホモ的な展開のする例の「腐女子ホイホイアニメ」じゃないかと見紛うくらいである。

 

なにを言っているんだ、これは健全なアニメじゃないか!と反論される方もいるかと思う。だから、ぼくが言っていることを理解してもらうためにはまず、「BL」の前身となった「やおい文化」、そして腐女子という関係性を理解してもらう必要があるだろう。


やおい文化」は、少年向けに最適化され少女がほぼ排除されてしまった「スポ根マンガ」、「格闘ポルノマンガ」に対する一種の抵抗…二次創作性から生まれている。
ここでいう「スポ根マンガ」「格闘ポルノマンガ」は『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』に相当する。これらの物語は、男の子がファンタジー世界に燃えられるよう最適化されており、徹底的に女子性が排除されているか、少なくとも傍観者のような位置づけになっている。ストーリーの主体はボーイミーツガールでなく、明らかに戦いを通じた少年同士のアツいぶつかり合い、友情の尊さにある。


本来、このようなポルノ的ともいえる男子優位の一方的な世界観に女子が入り込む隙などなかった。しかし、その排除されてしまった女子が、敢えて物語を読み替え、「星矢と紫龍は実はお互い惹かれあっていて、戦いのたびにときめきあっている…」というホモ話を二次的に創作しはじめたのだ。


彼女たちは、作品の中から「星矢、紫龍」「翼、岬」などのキャラクターをプログラムとして抽出し、少年同士の関係をあえて誇張して「同人誌」を創作する。その結果、「同人誌」の中の「星矢」たちはオリジナルからは似ても似つかぬものへと豹変しているわけだが、そこでは「原作で描かれていること、オリジナルのストーリー」よりも「あえて読み替えた少年たちの純愛ホモ」のほうがトオトイ…という、まさに「価値反転」が起こっているのだ。


この価値反転こそまさに「やおい文化」、そして腐女子を語る上で最も重要である。そこにはもはや、オリジナルと二次創作の間の優劣は存在しない。原作に描かれていないからウソである間違っている、という指摘こそが全く無意味になり、少女たちは「原作から勝手に妄想した少年同士の関係の敢えてのななめ読み」に快感を覚える。

 

『怪獣惑星』は決して、たとえば「ハルオとメトフィエスは付き合っている」というような事実を描かない。それは描かないばかりか、ひとつの間違った解釈に過ぎない。ところが、いま見たとおり、そのような「エビデンス厨」的な指摘は無意味なのである。腐女子は、はっきりと描かれない少年同士の間にこそ、あえて誇張したホモ関係をななめ読みし、悦に浸る。
もし、もうすでにハルオとメトフィエスがつきあってしまっていたとしたら、そこにはななめ読みする余地がなく、イージーモードである。そのようなハッキリホモに関心を示すのは、ただのニワカ…ホモ好きなお姉さんに過ぎず、腐女子とはとても呼べない。そういう意味で、この作品はいわば「古参」、クラシックなBLファンに向けて徹底的に愛されるように作りこんである。プライドを持った重厚な作品なのだ。