ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

『読まれなかった手紙について』について

友達のバンド「CokeColor,DearSummer」の曲に、『読まれなかった手紙について』という曲がある。ぼくはこの曲がとても好きなので、その好きな理由について書いてみようと思う。ちなみに、mvもちゃんと作っていて、彼らの曲は以下のURLから視聴が可能だ。親切設計すぎて助かる。
https://www.youtube.com/watch?v=uSB772rXyJ

 

ところで、『読まれなかった手紙について』は最近あまり聴けていない。前回下北沢のモナレコードのライブでもやられなかった曲だ。そのやらなかった曲のことをあえて書くというのはいかがなものか…という感じもするのだが、それは友達ということもあるし、これから先聴けるように、ある種の期待を込めて…ということで容赦していただく。

 

『読まれなかった手紙について』は、手紙について歌っている。それは現代に生きるぼくたちにとっては少し奇妙に思える。なぜなら、ぼくたちが生きる2019年現在では、文字を使った人々のコミュニケーションはビジネスなら電子メールだし、プライベートに目を転じれば、圧倒的にLINEやSNSを用いた通信手段がぼくたちの生活の大部分を占めるようになっているからだ。まさに、電子メールすら既に古いツールとなった時代にいることを思い返して欲しい。
LINEやSNSと違い、手紙という媒体はきわめて不安定な存在である。LINEはネットワークに接続している限り、必ず相手に送信することができる。また、「既読」がつけばそのメッセージは相手に必ず届き、それが読まれたことも一瞬のうちにわかるシステムになっている。電子メールであっても、ビジネスでは「メールを読みました」ということを相手に送りあうことが定例になっているし、もし、返事がなければ「メール読みましたか?」という連絡もすることができる。その文章は通信途中でロストしてしまったとか、送信できなかったという可能性はほとんどない。このような現代の通信手段から目を転じれば、手紙でのやりとりというのは非常にあいまいであり、そもそも相手に届いたのかすらわからない。もしかしたら配達員がゴミ捨て場に捨ててしまうかもしれないし、間違って違う宛先に届いてしまうことだってある。また、正しくそれが届いたとしても、それが実際に読まれたことを確認する手段はない。それが手紙というツールの特徴である。

手紙は絶えず、その内容が正しく相手に伝わらなかったり、間違った宛先に届いたり、間違った解釈をして読まれる可能性にさらされている。だから、ぼくたちはつねに、「届かなかった手紙」のことや、「読まれなかった手紙」のことについて考えなければならない。しかしぼくはそれと同時に、「間違って手紙を受け取ってしまったけど結果OKだった」という可能性についても考えてみるべきだと思っている。


メールやLINEは必然性の世界である。必然性の世界は残酷だ。例えば、ぼくは楽譜が読めない。だからぼくが不幸にならないように、ピアノの先生や両親は、ぼくにピアノを弾かせることを諦めさせた。このことは必然性から考えて、極めて理論的だし正しいことだと思う。
けれども、実際のところ今のぼくはピアノを毎日弾いている。なぜか?それは、ピアノのことをあまりよく知らない仲間やバンドメンバーたちが、「あれ、なんかよくわかんないけど、ほぼうさ氏のピアノ意外といいんじゃない?」と適当に相槌をうち、それをぼくが真に受けたことに始まっているからだ。その適当さはもしかしたら、単に酔っぱらっていたり、話をするのが面倒だったのかもしれないし、あるいはぼくが傷つくのを避けるための優しさだったのだろう。しかし、その偶然性にみちた誤解こそが、今のぼくを成り立たせている。

これが、「間違ってメッセージを受け取ること」が生み出す可能性の世界である。それはつまり、必然性だけで構築する「メールやLINE」の世界ではない。偶然性や誤解、様々な可能性に開かれた「手紙」の世界なのだとぼくは考えている。

 

ぼくは、古谷峻が『読まれなかった手紙について』で、手紙が読まれなかったことへの絶望や不安、切なさを歌っているとは全く思っていない。むしろ逆である。彼は「その手紙がもしかしたら読まれたかもしれない」ことについて歌っているのだ。
確かに、意中の人には恋人ができて、現実にはメッセージは読まれなかったし、気持ちを伝えることはできなかった。それは単なる悲惨な出来事である。だけど、彼はメールやLINEでなく、手紙を題材にすることで、ぼくたちは「もしかしたらあの娘とつきあってたかもしれない未来」や、「あの手紙を読んでくれてたかもしれない並行世界」について夢想することができ、幸せな気分にひたることができる。そして、実はその「いくつかあり得たかもしれない、もうひとつの未来」を考えることこそが、本当にあの娘のことを想うことでもあるし、悲惨な現実を偶然性の世界に拡張させ、幸福へと好転できる可能性にも繋がる。

 

「読まれなかった手紙について」考えることは、「もしかしたら手紙が読まれたのかもしれない、もうひとつの可能性」について考えることである。だからぼくはこの曲が好きだ。そして、またライブで聴けることを期待して、ここで筆をおくことにする。