ほぼうさ’s diary

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです

世界とその外部

唐突に1990年代の話を始める。GLAYは『彼女のModern…』の中で、「君のS.D.R.(セックス・ドラッグ・ロックンロール)」と歌った。実は『彼女のModern…』は、ぼくがこのS.D.R.という表現を知った最初の曲でもある。あまりに不自然な単語が登場したので、慌てて英字辞書を引いた記憶もある。

 

この単語の語源には諸説複雑な背景があるものの、指し示すところは「従来の価値観の外側にある、頽落的ユートピア」に他ならない。要約すれば、1)親との間で決められた相手と結婚するなんてまっぴらだし、そもそも家族という形態に縛られたくない(フリーセックス)。2)アルコールよりも意識を広げて、従来の宗教(キリスト教)よりも高い瞑想状態に、合理的に到達したい(ドラッグ)。3)伝統的なカントリーやフォーク音楽じゃなく、へたくそでもみんなが一緒になれる気持ちいい音楽の中でトリップしたい(ロックンロール)。という3つの新しい価値観の組み合わせである。

結局、人類は(というか、ヒッピー文化は)、このような当初掲げた高い目標を達成できなかった。人間はより自由な存在になるはずが、大量の婚外子、薬物中毒患者を生み、不自由な世界を生きることとなった。しかし、ロックンローラーは人々のあこがれであり続けた。

 

ぼくを含む、多くの一般リスナーにとって、ロックンローラーが生きている世界は、一般社会からかけ離れた縁遠い世界である。それは90年代も変わらなかった。ロックンローラーは自室でドラッグに耽り、ハイになった状態でライブをして、ライブ後は女にモテまくりで毎日セックスをする。そのような異端者は、規則や慣習や法律で縛られたこの世界を超えた「外部」として存在し続けた。

ロックンロールとロックンローラーがなぜ人気だったのか。それは、彼らがこの世界の「外部」であり、ぼくらにその外側の景色を見せてくれたからだ。ぼくらは退屈でどうしようもないこの世界の「内部」に心底うんざりしながら、そこから解放される「外部」のことをずっと夢見てきた。そしてロックを聞くと、一瞬でも自分が外側に出られたような錯覚を得られたのである。

 

ところが時代は下り、2010年代後半になると、ぼくたちはロックンローラーという「外部」を必要としなくなった。結婚していながら芸能人と不倫をした川谷絵音さんはライブのステージ上で深々と頭を下げ、謝罪をした。ピエール瀧さんはコカインを、KENKENは大麻を使用した容疑で逮捕された。ピエール瀧さんは当時結んでいたCMの契約がすべて破棄となり多額の慰謝料を請求されていると見られ、今後は首を垂れ続ける生活を余儀なくされると思われる。

GLAYがあのとき歌った「セックス・ドラッグ・ロックンロール」がまだこの世界に生きていたら、彼らはこのような社会的制裁を受けなかったはずである。例えば、井上陽水が薬物によって逮捕されたことは、ファンの間ではむしろ勲章でさえあったことを思い出して欲しい。しかしSNSで彼らが永遠の謝罪を要求されるこの世界は、「セックス(川谷絵音)」、「ドラッグ(ピエール瀧)」、そして「ロックンロール」がぼくたちの憧れではなくなり、ゆえにこの世界の「外部」になることはできず、機能不全を起こしていることを意味している。

 

しかし本来、人間は人間である限り、その「外部」をかならず必要とするはずである。そして音楽は、いままでもこれからも、この世界の外側を体験させる機能を原理的に持っている。だからぼくたちミュージシャンは、従来の「セックス・ドラッグ・ロックンロール」に頼らない形で、リスナーにその「外部」を体験させる装置を考えなくてはならない。

 『彼女のModern…』から25年近く経った今、ぼくはModernな彼女がいなくても音楽が生きていけるような方法について、真剣に考えている。